図 書
現代剣道百家箴
私の剣道修行
岩越 正(剣道範士九段)
今回全剣連より、20周年記念行事に現代剣道百家箴を編さんするから私にも何か体験談を書け、と申越されましたが全国の剣士諸氏に箴になる様な言葉を持合わせません。只私の修業経歴を申上げて御参考になればと筆を取りました。
私は北陸の一隅、福井に生れて、福井で剣道を修業し、福井で一生を終わるものです。明治35年に13才で小関教政先生の門を叩き、およそ6年の間指導を蒙りましたが、修業半ばで残念にも山形県へ転任されて終いました。先生を失った私は、独立独歩警察と学校に勤めながら自分自身で稽古をせざるを得ませんでした。私は初めから剣道に生命をかけて居ました。都の先生方を目標に只管稽古に励みました。
稽古と云いましても技倆が自分より下の生徒を指導するのですから、普通の稽古をして居ては自分が強くなる事が出来ない。生徒を指導しつつ自分の上達を計る工夫研究に、日夜没頭いたしました。香川県の植田平太郎先生も下の者を使って、自分の腕前の上達を計る研究をせねば地方に居る者は弱くなってしまうと申されて居りました。植田先生は当時の剣道大家です。私も其の言葉を手本として唯々練磨にはげんだ次第です。私には閥も背景もなく又剣道歴という程のものもありませんから、長い間には残念な事も度々ありました。而し其れらを超越して非力ながら現在の地位を頂戴する事が出来たのであります。
仮令田舎に居ても精神一到すれば剣道の修業は出来るものです。剣道は精神であり、練磨であります。理論と業とは一致して行かねばならぬが、然し先づ業であり稽古であります。稽古を怠けて居て上手になる筈がない。人より頭抜けて強くならんとするなら、人より数倍の稽古をしなければなりません。而し乍ら又独り稽古と云うものには姿勢、 態度、業に個癖が生ずるものであります。悪く固まってしまうと剣道の進歩は著しく阻害されます。絶えず之の技癖を直さねばなりません。機会をつくって都に練習に行き先生に稽古振りを直して貰うとか又、試合があれば試合後に先生に批評をして頂くとかそういう熱心さが何より必要であります。
全国で大半の先生は地方に奉職せられて生徒を指導して居られる、生徒を指導しつつ自分の技術の上達を計る、下の者を使って自分が強くなる工夫研究をする事が剣道を修業するものの心がけと思います。八段の審査に見ても明かであります。沢山の先生が受験されますが合格者は至って少ない。八段は実力であるから、やはり其れに足る技倆が伴わないからであります。自分は毎日稽古はすると云われる方もありますが、生徒指導稽古だけでは駄目です。指導しつつ自分の技倆が強くなる様工夫しなければ価値がありません、生徒を使って修業する事が肝要であります。
日々の稽古も、ともすれば冗漫に流れ、惰性に落ちる危険性が無いとは言えません。常に自分を鞭打ちて、工夫練磨に励まねばなりません。唯々修業は「己に始り己に終わる」ものです。他の誰が修業するものではなく自分自身が強くなる為に修業するものです。諸先生方に対し私ごときがおこがましき事を申して汗顔の至りです。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。