図 書
現代剣道百家箴
民族的遺産をどう嗣ぐか
臼井 久雄(剣道範士八段)
最近の剣道界をみると、シナイ競技時代の弊害をうけてか、本来の剣道の性質が次第に失われてゆくような情勢で甚だ遺憾である。一部では、「興味本位になろうとも剣道人口をふやすためには」と妥協的な声を聞く。併し一つ誤ると骨抜きものが後代に伝えられはせんか、私はこれを憂えるものである。剣道の真諦は、技や体育ではなく、それらの上に存する無形の精神にあると信ずる。体育は結果的効果であり、当然第二義的なものである。
幼少年、青年、有段者とそれぞれの程度で指導目的や内容の差があるにせよ、武道教育の根本理念や、特質を誤らせない正しい指導でありたい。礼節や真剣味が欠けて来たことは先輩諸氏も心配される通りで、今にして策を講じなければ取りかえしのつかぬことになりかねない。近頃の剣道大会でしばしば見るに、竹刀の剣道で使えても真剣の試合では到底無理と思われる技、或はただ当て主義の動作が多く、これに対して審判員の態度に色々考えさせられることが多い。科学の進歩した現在、剣道は武力でも護身術でもなく、人間形成の為のもので、若さにものをいわせ、一時にぐっときかす無理な技や動作は、その道で生命も短く必ず一つの限界がある。竹刀にせよ真剣にせよ、ほんとうの道に通ずる剣こそ、その道での生命も深くかつ長い。齢をとってたとい腕力は衰えても、益々芸術的な味、余韻のある気品、これこそ所謂剣禅一致の極みまで到達し得た剣道であると言えよう。
今日、剣道はスポーツか武道かの論議も多いが、要は真の剣が目指しているものは那辺にあるかによって問題はおのずから解けてくると思う。今の剣道は心身を鍛えるのに大きな意義があるが、やはり来るべき限界を破り得るものであって欲しい。心の構え、心の練りによって、ほんとうの肝を作りたいものだ。正しい剣道を修業する中に、無意識の内に何物かを体得し、将来どんな仕事についても、無限に資せられていく、役立つ確固たる日本人が養成されるであろう。チョッキのボタン一つの食い違いが、末端まで食い違うとすれば、第一線に立つ指導者は、常に正しい剣のあり方をきわめ、伝統あるわが民族の遺産ともいうべき貴重な剣道を、正しく次代に嗣がせる責任もまた大きいのである。
剣の本質を失わない健全な発展の為には、幼少年の剣道奨励に着眼し、親の関心協力を求めることが肝要である(将を射るには馬を射る(射よ)の意)。子供には技術的興味を持たすと共に、現代軽んじられている礼儀作法、規律のしつけ(躾教育)に重点を置き、所謂スパルタ式に指導することが、現代の世相からしても、日本剣道の特色として親の関心も高まると、私の体験上痛感する次第である。一例を申すならば正座のしかた、座礼、立礼、立居振舞、足さばき等、細かく正確に分解して身に着けさせ、また黙想、発声練習など禅的修養法を加味させ、授業前後に於いて分解動作、一挙動と自然に身につけさせる躾教育をし、礼儀、作法、規律、やる気と根性を養成するならば、人間形成主眼の剣道教育に一層の関心が高まり、健全な剣道発展の基礎になると信ずる。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。