図 書
現代剣道百家箴
私の履歴書
大森 茂作(剣道範士八段)
私の履歴書。富士を咫尺(間近)に北麓の寒村明見村(現山梨県富士吉田市)に生まれた。今から70年前である。米飯は正月と盆、日常食は玉蜀黍・蕎麦の類、5才の頃父の生地忍野村(山梨県南都留郡)へ山越しに行った。土蔵から畳を取り出して寝かせて呉れたこと、朝作りの家族と広い囲炉裏に足を入れ、 その中のチャンコの灰を手と口で落して食べたこと、チャンコが手より大きかったこと、煙くて涙が出たこと等々。父が新聞店主であったので、毎朝3時半に起こされ、立場(休憩所・発着所)に新聞を取りに行った。冬は足許が氷るから足踏みをしたり、馳足で新聞配達をした。私の人生行路 に得難い体験となった。小学校長今井伝(新東京成田空港公団総裁栄文氏厳父)先生に青年と共に剣道を教えて頂いたのは新聞配りをはじめた10才頃である。寺の廊下、水車小屋で着物の上から大人の防具を付けて打合いをやった。これが私の剣道の始まりである。
恵林寺様と観音様。禅寮に座し、加藤会元老師(臨済宗妙心寺派名刹恵林寺貫主)の法話を謹聴しておった凡そ20年も前の初夏の日の私の姿であった。確か柳沢吉保公から亡妻定子の方に寄せられた追悼の文についてであった。老師の口唇から流れるように語られる公の綿々とした慕情の一話一語が私の耳朶を打つことしばしばである。トンと小さい足音が廊下にして一羽の雀が降り立った。チュチュと呼ぶ声に二羽三羽と舞いおり、チュチュとこたえる声、トントンと廊下から畳にとぶ足音とが不思議に老師の一語一語のお話しのアクセントと調和して、禅寮の一刻は静寂に包まれ、私は夢みるように法悦の境地に浸ったことであった。私の陋屋入口に観音様が安置されている。丈一尺八寸、石造、徳川末期のものとの事、剣友内田建也教士の尊父から贈られたものである。守り本尊として敬している。昭和45年剣道範士の称号を授典され、一門の光栄と日に感激を新たに精進を重ねておる処であるが、この頃私にとって別途の試練が襲ったのである。観音様を拝し歩一歩菩薩行に徹した思出は私の血に流れている。
西瓜のシップタ(つる)と御光のさすこと。景山二郎(教士七段元本県警本部長前関東管区警察局長)先生の思出である。管区大会に備えて猛稽古の折である。先生の配慮で買い入れた西瓜を切る間おそしとあまたの手が殺到した処へ先生のお出である。荒された盆の上の西瓜は三、四切、私が無造作に差出したのである。先生はシップタの付いた切れ端を美味そうに召上っておられた。先生に掛る特練員の裂帛の気声が舞鶴城(甲府城)内にこだました。恒例の京都大会は平安神宮の武徳祭に始まる。心も身も清め、玉砂利の音もすがすがしく三々五々参入される大家諸先生の、文字では表現出来ない風雪が感ぜられてならない。年毎に白髪を加え、足許も不自由に上体も傾きがちのその後姿を拝し、唯御光がさしておられるようでならない! !
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。