図 書
現代剣道百家箴
剣道と人間形成
小川 忠太郎(剣道範士九段)
1.理の修行
理は心であります。心とは自己です。この自己は彼我対立の我ではなく、絶対の我です。人間形成の為の剣道修行に於いては、先ず心を把握する事が先決です。それには昔から打ち込み3年と申していますが、切り返し懸り稽古三昧になりきり機熟し大死一番絶後に再蘇(再び蘇る)する以外に術はありません。この悟りが得られなければ巧妙な技も砂上楼閣であります。之は頓悟で修行期間の長短には関係ありません。勇猛の士は悟りは一念に在りです。肉を斬らせて、骨を斬らせて髄を斬る。
古歌に
身を捨てて又身をすくふ貝杓子
2.事の修行
事は技です。理を頓悟しただけでは、実際の場に当って働らけません。そこで悟後の修行が必要なのです。事の修行は先ず遠間大技の捨身稽古に全力を盡す事です。更に進んでは、竹刀稽古と併せて古人が真剣勝負で体得した宝珠が秘められている古流の形とで、間合、殺活の技を真剣に鍛錬工夫する事、特に気の相続、正念相続に命を懸ける事が秘訣です。この正念相続こそ正しい剣道の根幹であり、人間形成の嶮関であります。事の段階は悟りは易く相続は難しと申す所です。剣道の修行は、事の修行迄が基礎で、少くとも十年はかかり、この「黙々十年」の苦行によく堪え抜くことが大切なのであります。
3.事理一致の修行
世間には剣道は理であると、心のみ主張して技を軽視する人、又技のみ主張して心を軽視する人がよくありますが、之は心と技とは独立した二つの別のものと見ているのです。心と技は別ではありません、理即事、事即理、不二、一如です。この関係を明らかにして錬磨功積む時は、事理一致の妙処に到達できるのであります。ここは死にあっても平常心を失なわないとか、技神に入るとか、遊戯三味などと申す妙境です。修行もこの辺迄くれば日常生活の上でも役に立ち、心の底から楽しみが湧いてきます。晴れてよし曇りてもよし、日々是好日、ここ迄至れば自分一箇の人間は剣道で形成されたと申して過言ではありません。然し乍ら社会は自分だけではない、他がある。真の人間形成とは人間社会の形成とゆう所を発展せねば止る所を知りません。
4.自他不二
人間社会の形成、之が剣道修行の大目的であります。ここは一刀正傅無刀流五点の最後の独妙剣の位です。「打太刀陰刀、仕太刀正眼、互に一足一刀の間に進み、打は陰刀より仕の正面を乾坤一擲と打ち下ろしてくる。それに対し仕は正眼に構えた侭不動、打たせっ放し、打は引いて正眼となり終る。」かかる高い境涯は、筆舌では申し上げられません。又私の分際では恥かしくて筆をおくより外はないのですが、お許しを願って説明させて頂きます。独妙剣の仕は形の上から見ると、でくの坊に見えるが然らず。之は悟了同未悟(悟り了らば未だ悟らざるに同じ)の境涯です。即ち学ぶべきものは学び盡して、更に今は学ぶべきものはない。為すべき事は為し果てて今更為すべき事はない大閑のあいた境涯です。何んでも知っていて知らん顔をしている。それで自然に人を化する。之が自他不二、親和、労して功無き独妙剣の位であり人間社会形成の真髄であります。
この独妙剣の境涯に迄体達した無位の真人によって、ほんとうの剣道は傅はるのであります。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。