図 書
現代剣道百家箴
心の眼
小梛 敏(剣道範士八段)
剣をとって60年、72歳に達する今日まで殆んど毎日竹力を執らない日はなく剣道の命数の長さにはつくづく感じさせられるものがあります。所が私は10数年前より視力に異状を来たし、都内のあらゆる名医の診断を受けましたが異口同音に視力減退の原因について発見することが出来ないと宣告されました。
私は、眼鏡による調節も不可能であるため総てを断念しました。現在においては相対する人の容貌すら判然とせず、物腰・声音等によりその人を判断するような状態で、大方の人に失礼をすることがしばしばあります。
剣道をする場合において視力の衰え初めた頃には若い学生などの渡り技の早技にはしばしば悩まされました。そこで私は昔の文献或は口傳などに見・観或は心眼と云うことのあるのを思い起しました。見とは即ち肉眼で見ること観とは心でみる即ち心眼であります。
昔の剣聖が殺気を感ずると云うことをよく云われました。柳生但馬(柳生但馬守宗矩)が庭前の桜を漫然と見ていた時小姓が如何に先生が達人であろうともこうした隙に打込むことが出来ようと思った。ところが但馬は突然形を改め屋内に入り不審そうに小首をかしげていた。そこで小姓が先生何事でございましょうかとうかがいを立てた所、庭前で殺気を感じたが振り返って何もないのは私の心の乱れであると思案げに云った。そこで小姓は先程の自分の心の内を申述べた所、但馬は、あそれだ、と云ってもとの平常心にもどられた。こうした殺気を感ずると云うことが果して現代の剣道界において出来得ることでしょうか。私は出来ると信じたい。前述の如く私は相手と相対して殆んど相手の姿・剣の動きが茫漠として、さだかでなかったのですが、最近においてあらゆる心気の苦労の結果、相手の体・足捌き、剣の動き等が見えるようになって来ました。それは視力ではないのです。私に云わせれば之が心の眼であると思われるのです。現在では高段の人と相対しても学生の早技に向っても決しておくれをとるようなことはありません。
おこり・出頭・すり上げ・応じ返し等の技が眼をわずらう前と同じように出来るようになりました。剣は心なりと申す言葉がありますが心の持ち方で如何様にも修業は出来得るものと思われます。幸にして肉体的には至極健康なので死ぬまで剣を心の友として生き甲斐を感じて行きます。いささか参考になればと思い私の体験を述べました。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。