図 書
現代剣道百家箴
愛のしつけと憎しみのむち
黒住龍四郎(剣道範士九段)
今は昔の武徳会では忠君愛国の言葉を始めとして名誉廉恥質実剛健の思想が教育の骨子であった。
其の中心は剣道の内藤高治先生の教育方針に統一されていたと謂っても過言ではない。さりながら此の内藤門下であると云う事を意識して尊大横暴に振舞う門弟は、私達の修業時代には一人も居なかった。これは偏に先生が高徳潔白で子弟を真の我が子の如くいつくしむと共に所謂謙譲の精神に躾けられたことに依るものであって、実に美事なる武徳会講習生であり、美風であった。此の第一代主任の過ぎた或る頃私が助手の時代に、私の郷里岡山県から飄然と京都武徳会講習生に入洛(京都に入ること)した河本黄海雄と云う人があった。全く紹介もなくぶらりと入洛したのであったが其の内に私も知り、本人も私の宅に出入する様な間柄になった。その後岡山県赤磐郡瀬戸町(現岡山市)のDと云う地方の有力者で剣道の田舎の先生をしている人が5月の京都大会に入洛の節来訪、この人から河本君の素性を聞いた。その話によると彼は、日清戦争当時の海軍水兵の父と柔順なる田舎出の母との間に出来た子供で黄海海戦(1894年)当時出産したとかで黄海雄と命名されたのであったが、極めて復雑な家庭事情の下に育ったとの事であった。
その為か彼は毅然とした気性など微塵もなく、体軀は肥満型、動作は極めて緩慢、従って剣道の稽古と云へば飽くまで鈍重、気剣体一致などは云うも愚か、話にもならぬ稽古振りであった。講習生の稽古日は教授助教助手が割り当であった。或る日河本君の稽古の模様を見た。当時の武徳会の稽古は実に荒く、足業は総べてが可能であった。河本君の稽古の様子はと見るに、懸かれば突かれ打たれ、寄れば足搦み、倒れれば上から打ち突き、起きれば又倒して打擲と云ったもので全く苛めて手も足も出なく痛めつけられて居ったが、河本君は如何に扱われても自分の力限り稽古をしていた。聞く処によると彼は私に親しくして居ることを得意として居ったらしく、この最も幅の狭い私を偉い人の様に見立てて所謂虎の威を借る狐であったので、其の憎しみは稽古上に報いられて居ったので愚鈍なる彼はそれを解せず稽古を続けて居ったのである。其のうち彼の稽古は随分上達して驚くばかりであった。この彼の修業過程は愛の鞭にあらず憎悪の打擲であったが、不死身の彼には愛の鞭と同じ効果を為したものと私は秘かに今以って感銘し一つの尊い教訓を得たと思って居る。其の後河本君は満州に渡ったとかでその消息は知る由もない。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。