図 書
現代剣道百家箴
意欲と信念
佐々木 季邦(剣道範士八段)
万人欲望を有し、これが具現に努む、物質欲、名誉欲、精神欲等人間社会に於いては、各種各様の欲望を持っているのが常である。欲望のあらゆる社会像はさておき、我々武道にいそしむ者が達成せんとするものは、形而下の欲望にあらず、形而上の欲求を満足せしむるため、これが手段方法を案じ、これに向って挺身実行し、平和博愛の剣、理念に則した剣の道を養い、一方至純な社会活動を遺憾なく発揮出来得る身心の育成に努め、武道本来の目的に合致せしめるよう努力するに外ならないと思う。
我々剣を学ぶ者、徒らに強豪達人の域に到達することをのみ目途として修練を重ねるわけではなく、その修業の過程に於いて強健な身体育成に努める一方、剛健不抜、克己忍耐、敢行の勇等精神要素を互譲礼節の間に陶冶修得し、これを自己修養の根源たらしめんとするにある。 従って修行の間、旺盛なる意欲と高い理想像を画き、而もこれらを追求するにあたり、不断不休の精進に依って到達を期する姿勢が肝要であると思う。
不肖年少の頃身体頑健ならず、心また積極性を欠き、畢竟剣を取り、剣によって社会に処す器でないのに、(大日本武徳会)武道専門学校に入学し、剣の道に専念することとなった。入学当初、修学に耐え得る身体と精神的要素に於いて100パーセント自信が持てなかったので、何とか両者を育成する方法はないかと、煩悶不安動揺の時機を過した。幸、熱情の士、真摯努力の人、温情友誼に極めて厚い、良き先輩故河野通諒範士と居を共にすること1年、相互に胸襟を開き、将来の構想を語り、武道修業者の理想像を画き、これが実現に一歩を踏み出さんことを盟約したのである。
この時まず第一に取りあげたのは人間の精神活動は奈辺まで向上を計ることが出来るか、身体活動をどの程度まで規制し得るか、この精神活動を遺憾なく発揮活用出来る肉体即ち身体を鍛練するには如何なる手段をとるべきかということであった。
選択した手段は極めて幼稚であったが、次の方法をとることにした。即ち、寒稽古に於いて元立掛り稽古の回数を規定時間内に於いて何程記録し得るかである。
当時吾々の寒稽古は、期間は21日午前5時30分より7時に至る1時間半、稽古方法は徹頭徹尾切返し、体当りのみ、京の厳冬比叡颪直下、極寒の冷気深々として、道場をいてつかせる状況の下、只でさえ耐え難きを若人の意気と熱情を以て漸く克服したのである。本期間中記録された本数毎日会計60本前後、元立掛り稽古本数相半ばす、之れを時間的に配分すれば1分30秒に1本という割合になるのだが、問題はその1本の内容如何にある。どの1本にも全勢力を傾注し、体力気力のありたけを挺しての稽古であってみれば仲々事重大である。従って始業から終業に至る間真実1分の休憩息つく暇も許されない状態、時間の頭初は自覚の中に行われたものが継続するにつれ意識朦朧無我夢中に行われ、終了時に初めて、自己に帰る程度である。稽古後の血尿の排出は常で、食慾は完全に不振、水さえも咽喉を通らぬ有様、体力は激減し、身神の消耗はその極に達し、疲労さえも自覚し得ない困憊の状態で終始した。
今にして思えば、あの時よくもあのようなことが出来たものと心ひそかに思う。これも自分一人ではなし得なかった過去であるが、幸、 前記の河野先輩の叱咤激励により盟約の遂行に邁進した結果に外ならないと思う。斯る些細な一経験も、かろうじて達成出来たために、一つの信念を獲得することが出来、得難い経験となった。
ここに於いて精神的意欲の下、よく肉体を制御し、身体これに追随し来った所以を確認し得て、今日に至るも尚、己を支える信念となったのである。
思えば、学術文化芸能スポーツ等あらゆる界層に於ける修行の道皆一にして純真・高度の意欲を一歩一歩向上し、これが具現に全力をつくすに於いて、初めて、不滅の信念を確保し得るものと思わる。この姿勢の追求こそ、又我々武人の学ぶべき道標ではなかろうか。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。