図 書
現代剣道百家箴
素振りの生涯
佐藤 忠三(剣道範士九段)
大正7年3月山形県庄内中学校を卒業して京都武道専門学校に入学した。中学時代には何時の大会にも優勝不敗であったが、京都に出てからは、負けてばかり、先輩から君のは歩巾が広過ぎるからもっと狭くせよと注意される。有難う御座いますと歩巾を縮めて構えると、別の先輩から電柱を立てたようだからもっと歩巾を広くせよと言われ、どうすればよいかわからない。そのくせ剣道をしてどんな効果があるだろうなど理屈を言う。ある日朋輩が先輩に連れられて道場で素振りのやり方を教えられているのを見た。これは剣道上達には極めて有効であると聞き、それからは剣道に関するお喋りは止めて、毎夜就寝の消燈になってから一人床を抜け出て道場に行き、丸裸になり、素振り600本をし、後道場に座り気を鎮めて帰り就寝した。これは続けなければ意味がないと毎夜1年間1日も休まず毎夜600本振ることを怠らなかった。長い休暇には家の庭で、雨降りには座敷で600本乃至1,000本ずつ振った。その後朋輩とは打突は別として、手元が弱く子供を相手にしているように頼りなく覚えた。本当の強さは此処にあるのではなかろうかと独り合点して、2年生からは6時の起床を5時に起きて道場で今迄通りに600本ずつ振ることにした。此頃から次第に試合にも負けないようになった。
学校を卒業して研究科に入るや直ちに助手に任命され、同時に東山中学校の国漢文教諭に推薦され教鞭をとることになった。午前中は中学校で国漢文を教え、午後から武徳殿で武専生徒、講習生を各1時間半ずつ稽古をした。さて剣道の用があっても中学校の授業を休むわけには行かない。それで推薦して下さった下川先生を訪ねて中学校教諭を辞職したい旨を申し出た。下川先生は剣道ばかりでは人並の生活はむずかしいから教諭を兼ねていた方がよいと言う。持田先生、小川先生等は剣道だけで生計を立てて居られるではないかと言えば、あの人達は何千人に一人というんであるからあんな人達を真似てはならない。自分は愚鈍で到底これ等の先生には及びもならないが、専心努力して遂に暮しが立たなくなれば諦められるが、努力しないで目的を達し兼ねては諦められないと断乎として中学教諭を辞任することにした。その後西久保校長から国漢文の検定受験をすすめられたが辞退して剣道一筋に生きることに決心した。その後たとい技は進歩なくとも努力精進は誰にも負けないと心に誓い、武徳会では息の続く限りの稽古をし、休暇には地方に武者修行に出た。かように修行に専念出来たのは生家に祖先の遺産があったことと、生来身体が頑強であったからである。修行に幸運であったのは、剣道を初めて学んだ10才の時からよい先生に恵まれたことである。少年時代には藩の師範鈴木重臣教士、中学時代には同じく藩の師範であった宮村利貞教士、武専では内藤、湊辺、持田、小川、宮崎、近藤の諸先生、及び高野(佐)、門奈、中山、高野(茂)、中野、斎村、大嶋、市川、中嶋の諸先生の外多数の先生、先輩の指導を受け得られた。長い間には種々障害はあり、特に家が破産に傾きかけた時には、親戚出入の者から帰宅を要望されたが、内藤先生から絶対に帰ってはならないと申されて止まった。終戦後剣道は中絶せられたが270匁(約1Kg)の木刀を持っての素振はやり続けた。
28年に剣道復興、東北管区警察学校に就職、此方に来て20年になるが、既に老衰、古稀には古稀の剣道があるべきはずと剣をとっているが、心身意のままにならず、空しく古今を追憶して寂寥の日々を送るのみ。
宿昔青雲志
蹉跎白髮年
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。