図 書
現代剣道百家箴
昔の稽古
高橋 秀三(剣道範士八段)
祖父赳太郎範士について平素稽古の仕方や業についての説明を求めましたところいつもかえって来る言葉はそんな理屈ばかり云うよりは、もっと稽古をしなさいの一言で片付けられて一向に説明を加えたり教示して貰った事がなくて、口惜しがったり残念がったりしました。ところが今にして考えて見ると、それは業について説明しようと思っても口で云い表せない微妙な奥深い世界があり修業体得の浅い深いによって悟る事の出来るものであってただ稽古せよの言葉になったようです。
最近になって漸く自分も後輩指導に当り、業などの説明をするときそれを納得させるのに苦労をし最後にはもっと稽古をしなさいと云うことになって了うことが多いです。剣道とは行にて、修業を重ね重ねてはじめて体得出来るものであって考えるのみにては得られぬものであり常に業を磨き己を忘れ我を去り無心となりて修業をしてこそはじめて得られものと思う。かつて或る日我が流名の「無外流」の無について神戸市の平野に在る禅寺の祥福寺の老師を招いて、祖父はじめ門下生一同が教を受けた事がありましたがその時の老師の解説の言葉はただこれ「無」これ「無」うんと云われたきり1時間余の長い間何等補足説明される事がありませんでした。道とはかくの如きものでしょうか。
先人との修業の差について、昔の先生方が稽古をつけられるときは気力充分に相手を圧し、攻めてゆるむことなく、相手がじっとしている事が出来なくて無理に打ち込み息をあげざるを得ないようにされた。然も1時間、1時半の長さにわたって立切って弱ることなく、更に終りになる程強くなられるその強さ息の長さは驚くべきものでした。身長僅か五尺(約152cm)そこそこの小軀の先生にして然りでした。このような先生方にお稽古を願い、拝見することが出来た事を夢のように思い出します。かかる稽古は高野佐三郎先生や中山博道先生方の頃までにて以後の先生方は大分異なっているように見受けられます。
昔は65才にしてはじめて伎倆は勿論人格識見共に備わるものとして範士の称号が授与された事を思うとき如何に修業が困難にして努力を要するものであるかを考えさせられます。
祖父の昔話の中に寒稽古の折四斗樽に水を張って置き、水の張っている中に稽古着を突込んで、それを身につけ稽古をし、稽古着が乾くまで稽古をしたものだと、その修業の厳しさに思わず我々の稽古の未熟さを悟らせるものがあることを痛感いたします。これ等の修業により得た道が何ものにも換え難い奥深くも尊いものがあることを知らされます。
少しでも之等先人の遺された偉大な業蹟や遺徳に近付くべき修業をすべきであると吾身を省みて愧しく今後一層の精進に励むべき事を心に秘めるものであります。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。