図 書
現代剣道百家箴
自戒日録(抄)
鶴海 岩夫(剣道範士八段)
剣道の古訓に、「理業一致」というのがある。思えば、これほどきびしい命題はないであろう。業(わざ)はすべて、理にかなわねばならぬと先生達は説く。
また、「気剣体の一致」とも。しかし、ひとりよがりでなく、彼我に納得のいく業を、当意即妙に打ち出すことは、至難もはなはだしいといわねばなるまい。ついでながら、中国では、古来、「気」のことを、大気、すなわち大自然と解しているようだが、かりに、天地の流動に融合してはたらく剣の理(ことわり)を、真の理想と解釈すれば、かへりみて、一種のおののきを私は覚える。一般には、「気」を、気合とか、 こころ、つまり、人間的な面でのみ、処理しているようだが……。
日頃の稽古のほかに、1日5百本の素振りを、私は、自身に課している。ことさらに軽い木刀を使う。重い木刀だと、余計な負担を強いて、肩と肘をいためるからだ。人は、なま身であることを、つねに意識してかからねばならない。要は、手くびと手のうちの冴えを、わがものにし得ればと。
小野派一刀流の形も。警視庁の剣道指導室は多士済済、形の相手には存分にめぐまれている。温故知新世紀を超越して命脈を保ちつづける古流には、掬して余りある趣きと、なお新しい魅力とが共存する。
長い歴史と、数かずの古典に裏打ちされた剣道――、ある時期、突然に、ひとりの天才の出現で築きあげられた所産では、無論ない、きわめて長期に亙っての、しかも、いくたびとなく繰り返された“人海戦術”の末に、おのずと、ひとつの最大公約数がみちびきだされた。それが今日の剣道であろう。抜きさしならない「基本」が生れてくる道理である。「基本」は、だから「掟(おきて)」と言いかえていい。警視庁では、試合に臨む場合、業はあくまでも基本に忠実であれと指導している。基本を無視して剣道はない。邪心を払い、みずからにきびしく、基本に則して人の三倍も稽古に没入すれば、生来の器用、不器用など間題でない。誰でも範士になれると思う。
稽古では、未知の人と相対する率がきわめておおい。それも、ほとんどが一期一会。剣尖を合せた瞬間、だから、相手がどれほどの実力者かを、即座に読みとらねばならない。花に触れて花と知るこころ、竹刀を打ち合ってから、花の姿に気づいたのでは遅い。齢60歳にして、七段八段の若手と互角に稽古ができなければ、専門家として一人前ではないと思う。
「撃竹」という。境内を掃き清めていた禅僧の箒の先端に、たまたま、小石がひっかかった。小石はつぶてとなって前方の竹林に飛び、やがて、したたかな音を発して青竹の幹に命中した。もとより、無心の禅僧である。石を竹に当てようと、故意に箒をなぎ払ったわけではなかった。これが、「撃竹」。であると思う、「則天去私」に通じるところかと。右、自戒をこめて。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。