図 書
現代剣道百家箴
私の剣道修行
船田 中(全剣連顧問)
〇初仕合。
私が剣道―昔は剣術とか、撃剣といって剣道とはいわなかった―の修行を初めたのは幼年の頃であった。というのは、私の父が私学の創立者であり校長であって、特に漢学と剣道には修錬をつんで居ったので、住家の裏に道場があり、毎日そこで木剣や竹刀を振り廻しておった。私もよちよち歩くようになると、見よう見まねで、木剣を振り、竹刀でたたきあうことを覚えた。
日露戦争の直後、イギリス(当時日本の同盟国で日本の協力国)からコンノート殿下が訪日されたことがあった。殿下は日光見物の帰途、私の郷里宇都宮に立寄られ、師範学校の講堂で、幼少年の剣道仕合を御覧になられた。私は小学校から選ばれて、殿下の御前で初めて仕合をさせられたので、毎日父から仕込まれた通り、しゃにむに突進して相手を突き転ばしてしまったことがあった。
〇塩谷青山先生。
田舎の中学校を卒業して、私が高等学校(旧制、一高)へ入学したのは大正元年、世は明治天皇の崩御によって諒闇の時代であった。はでな行事は許されなかったが、一高剣道部の初仕合に出て、何人かを相手にしたというので、剣道部員にされてしまった。当時剣道部の部長は塩谷青山先生(■蔭先生の孫)で、先生は本職は漢学の大家であるが頑丈な体軀をもち、剣道にも秀でておられた。先生は、お住居の中に菁莪塾という小さな私塾を有せられ、漢学の講議と剣道の修養道場とされておった。この塾の先輩には松平恒雄(戦前宮内大臣)塩谷温博士を初め多くの俊才を輩出している。
春秋二回菁莪塾の大会があり、春の桜、秋の萩、また月をながめつつ、汗を流した後の酒宴となり、先生のお手から盃を頂き、何れもほろよい気分で詩吟を楽しんだのであった。そこに、ただ子弟という以上の深い人間的つながりが生れ、私のみならず、この当時の先輩、友人は今もなお兄弟のような親しみを感じている。親子断絶などといわれるこの頃、こうした子弟の交わり、交友関係は再び取り戻せないものだろうか。
〇動と静
衆議院の本議場で、議長席についている私を見た人が、議長はいつも姿勢が良いといってくれる。姿勢の良いのと、足のはこびが静かであるのは、正に剣道修業のおかげであると信ずる。
昔の剣道修行者―兵法者といっている―は平素もずい分緊張していたようだが、宮本武蔵に対して吉野大夫が、心のゆとりを求めた逸話は有名なことだが、この道には動中有静また静中有動で、臨機応変の構えがとれ、身を守り敵を倒すことができたのだろうと想像される。そこで、私は中国の何かの書にある「静而機警、動則機成」という詞を想い出し、剣道修行もこれだなと感じた次第である。
*註 ■は「艹」(くさかんむり)の下に「陶」である。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。