図 書
現代剣道百家箴
剣道の目的
松本 敏夫(剣道範士八段)
古代の剣術は剣を持ち、敵をたおす目的で剣の技術と体力を修練したものであるが、時代の変遷にともない変化してきた。
しかしながら、剣を持ってたたかうことから生れたものであるから、現在は竹刀を持って行なっているが、真剣であるという観念で行なわなければ剣道とはいえない。
斬るか、斬られるかという緊迫した場を想定し、いいかえれば、心が極めて動揺しやすい条件下で修業するものである。
剣道では、相手に撃ち勝ち、そして撃たれないことが目的ではある。しかし、撃つべき機会に時を逃がさず撃ちを出し、また自分を守るには剣技の練達を必要とすることはもちろんであるが、その剣技を充分発揮することのできる平常心を保ち得てこそ、成しうるものである。
したがって、技術の向上をはかるとともにその根源である心が何ものにもとらわれないように、心の正(無心)を求めて、心の修練をすることが、剣道修業の真の目的である。
剣道の修業は、心と技が常に平行して進んでいくことが、一ばん望ましい。撃ちは、みだりにだすものではなく、相手の心の乱れるところを撃つのである。無駄撃ち、撃ち急ぎは自滅の原因となる。
撃つべき好機には
一、実をさけて虚を撃つ
一、起こり頭
一、居付いたところ
一、尽きたところ
一、狐疑心の動くところ
一、急がせて撃つ
ということがあげられている。
これをみても、撃ち急ぎ、あるいは撃とうとして心がそこにとらわれたか、あるいは心が居付いたか、いずれも相手の心の乱れようとするところを撃つべきだと教えている。
また、三つの許さぬところとしては、
一、起こり頭
一、受け止めたところ
一、尽きたところ
などで、これも相手の隙である。
さらに四戒として
「驚」「懼」「疑」「惑」
があげられており、これも心の乱れである。
心の乱れは、構えの乱れとなる。即ち、相手の隙を撃つのである。
たとえ相手の隙を見出しても、間髪を入れずその隙を撃つには、常に気力が充実し、 自分の心が虚(無心)でなくてはならない。無心であれば、相手のすることがよく見えるし、何のわだかまりもなく、応変自在に撃ちをだすことができる。
虚とは、禅では「平常心是道」ともいい、虚心坦懐、心がとどまらず、我をもたざる心境をいう。
無心になれということは、非常にむづかしく、達することのできない境地だと考えられるかもしれないが、ある程度稽古を積んだ人であれば、思いあたるフシがあるはずである。それは、稽古あるいは試合のあとで、どうしてあのような立派な撃ちが出たか、自分でもわからないというようなことが、数こそ少ないかもしれないがあったと思う。これは、その撃ち出すときの心境が、気力が充実し無心であったから、無意識の撃ちが出たのである。
こういう機会が数多くなるよう努力すべきである。ところを変えて、自分が撃たれないように自分を守るには、心が動揺せず平常心を保つことである。
心が動揺しないためには
一、剣道の基本を充分身につけ
二、剣の理合を会得し、技術の向上をはかり
三、どこからでも来いという絶対不敗の信念を持つことである。
以上のように、攻守ともに剣の理法を通して、平常心を保つことのできるよう修業すべきである。
このようにして体得した平常心、即ち、我を持たず、感情に走らず、坦々とした豊かな心を、実社会においていかし、人の意見もよく聞いて是は是とし、非は非として、仕事を迅速に処理できるよう活用するとともに、自己完成のために役立てることこそ、剣の徳であると信ずる。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。