図 書
現代剣道百家箴
噫!! 神僧
森田 文十郎(剣道範士九段)
筆者が神僧という不可解な文字を見たのは昭和11年7月5日発刊の「念流の伝統と兵法」という書物を入手した時から後の事である。
念流三世を継承した小笠原東泉坊甲明は謹序と題して念流の伝来を記述した。是は念流宗家々伝書の一部となり貴重なものであり、一世一代相伝秘伝書極意に添えて当主だけに見せるもので、門人でも見る事のできぬものであったが、近頃は我々も見る事が出来る様になった。従って別派中条流系統の諸流には伝わらなかった。因みに念流四代を僭称した上阪半左衛門安久は念流宗家とは無縁のもので何の関係もない異質の流派である事を明記している。(家伝書)謹序の一節「……高祖奥山念(慈恩)於二相陽寿福寺一従神レ僧伝二過去現在之二術一過去術者魔法也……」としてあり、まだ若かった頃の著者は反感を以て是を見、念流を軽蔑した。これに近よらぬようにしていたが五輪書は尊敬して其の研究には打込んだ。武蔵はウソを言わない人と信じて一拍子打ちの語に感激して苦修30年を空費した。或日犬の走るのを見て体を以て打てば得られる事に気付き、熱心にやったら数ヶ月後に勇気を増すことを知り、数年後に中天の声を聞き、剣の醍醐味を味う事ができるようになり、剣に対する自信ができてやがて武蔵の言う放心作用らしいものが出来るようになってから謹序を見なおすと「……童子面前来叺(以)述二教外別伝叺レ(以)手伝レ手之密術一念阿(慈恩)不レ会取レ剣而向二童子一打二問教外別伝之意旨如何一児童忽変二天狗一提二起剣一而打丁。 念阿(慈恩)剣下大悟。」との甲明苦心の心使いが読め、戦国時代に処する達人の周到さに敬意を表するようになった。「以レ手伝レ手之密術」(手をもって手に伝ふるの密術)の行き届いた考え方には頭が下るのである。宗家の直伝がなかったなら邪道にも入りかねない所である。武蔵は芸能の天才であるから、その表現に苦心して一拍子打ち打法を入れたのである。読者はその心して対す可きである。
最近東海女子短期大学教授(美術)土屋常義氏の論文を見て、記録を残さぬ修験者円空の生年、訂正の苦心談を知り、広く天下の耳目に訴える事を決意した。神僧及び中条兵庫助の墓碑発見に関して地方の剣人に努力を依頼していたが何の手がかりもまだない。鎌倉や甲州中条村辺りに必ず墓石がある筈である。慈恩は16才の時再び鎌倉に舞い戻り、寿福寺で神僧に逢い、過去現在の二術を学んだのである。神僧は出生氏名身分等全く不明ではあるが、その功績は念流を通じて歴然と残っている。魔法といっても過言ではあるまい。慈恩は足かけ3年即ち18才の時福岡県太宰府安楽寺で開眼し、過去の術を得て遠隔テレパシーによって仇敵刀根長高の動静を知り、急ぎ相馬に帰り本懐を遂げたのである(1368年)。円空は1632年出生で年代は大部違って古くはあるが、墓石があれば何か手懸りが生れる筈である。円空の彫刻は外人によってその真価を知らされた、カリフォルニア大学で教えているマッカラム氏は日本美術の講義で円空をとり上げているから土屋氏は生年のわかった事を真先に知らせてやった由である。佐和隆研著「密教美術」其の他種々修験道に関する書物に修験者が記録を避けることを書いている。円空は修験者であるから、此事を忠実に守って居り、ほとんど記録を残していない。念流の神僧も修験者であるから甲明の書いた謹序の中に出てくるだけで他書には何も書いてないが、我国技剣道最高秘伝の創始者神僧に関する記事が何もないとは残念のことである。
歩行法準拠一拍子打ちは剣道禅の基礎である。歩行法則は造物主(神)の心と解して差支えあるまい。誰が何時、何処、でやっても正しい事は真理である。真理は神の心である。神の心を行う者は神の道を行うものである。神の道を行うものは、邪心があってはならない。心を空しくして一拍子打ちを行えば神の意志に適った剣法が得られ過去の術が得られるのである。放心作用が身につき光剣光身の位に達するのである。心剣の法が得られるのである。江湖諸賢の御協力を願って止まない次第である。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。