図 書
現代剣道百家箴
兀々地剣道
湯野 正憲(剣道教士八段/全剣連常任理事)
主治医は、生涯を托した剣の実践を断念せよ、と私にいう。まさに入院三日目の宣告である。
生死の葛藤を葛藤す週の間、この私から剣をすてる、一体それはどういうことであろうか。あきらかに體験ぬ。
諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。
万法ともに、われにあらざる時節、まどいなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく、滅なし。
仏道もとより豊検より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。
自己をはこびて、万法を修証するを、迷とす。万法すすみて、自己を修証するは、さとりなり。ああ、しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり、と。
道元禅師、正法眼蔵の導きは、我をして、天を仰いでなかしむ。
あきらかに體験ぬ。
人間の如来はかくの如くにして来たる。しかも、人間をはなれて人間の如来はないと。今よりは、業消不空誓願菩薩となりて諸悪莫作(もろもろの悪をつくることなく)
道得剣道 (いいうるも剣道)
不道得剣道(いいえざるも剣道)
兀々地剣道(こつこつぢ剣道)
この不道得底を不道得底と証究す、これ剣道。
剣道は実践をはなれてはない、まことにしかり、剣道の終局(ゴール)は剣を道得(いいうる)するということであろう。しかも「到」のゴールは「不到」の概念を含むことを知らねばならぬ。剣に生涯を托して行ずる者、かならずしもゴールに達すると誰れか保障しよう、到は不到を含み、しかも、時間、空間において、それは未来にあらず、いま、ここ、を行ずる剣は、道得、不道得にかかわらず、到、不到を含んでゴールそのものである。
兀々地剣道である。
兀々地は仏量にあらず、法量にあらず、悟量にあらず、会量にあらず。
いま、ここ、を心をこめて繰り返し、繰り返し生きることである。生き抜くことである。葛藤を截断するとはいわない、葛藤を葛藤し抜くことである。そして、心の奥底にある無限の創造性に徹し、これに随順して生ききることである。それをこそ、兀々地剣道である。
ある時は理到りて事到らず
ある時は事到りて理到らず
ある時は事理両つながら到る
ある時は事理倶に到らず
事理ともに有時なり
到・不到ともに有時なり
到事未了なりといへども不到時来なり
到それ来にあらず
不到これ未来にあらず
有時かくのごとくなり
到は脱體の時なり
不到は即此離此の時なり
剣道をはなれず生きることが自己である。自己が剣道であるとの決断を真如ならしむるものは兀々地剣道である。
柳生、芳徳寺の故橋本定芳老師は「山々雲」「十方無外」と教えられた。それが自己である。万法すすみて自己を修証するはさとりなり との教えを修証し、私は剣への葛藤を葛藤し抜いて生きたい。
この不道得底を不道得底と証究す、これ剣道。
最後に、つねに私の剣道修行を見守り、はげましてくれた妻娘に感謝の合掌をささげる。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。