図 書
剣道みちしるべ
第13回 胴技について
総務・広報編集小委員会(当時)真砂 威
前回は、締め切りが迫った「第12回剣道写真コンテスト」への応募のお勧めと、昨年(2007年)の最優秀作品に投影された筆者の考えを少し述べさせていただきました。
本題にかえりまして、前々回は、試合の長時間化の問題を取りあげました。戦前の大会などでは、勝負に要する時間は非常に短く、その当時において、思いのほか長時間に及んだ試合では、「15分にも及ぶ長い熱戦が…」などと異例にあつかわれていました。ところが最近では、30分以上も平気で戦っている試合も珍しくありません。そして、試合時間を長びかせている原因は、「防御一辺倒の姿勢」と「粘りつく鍔競り合い」にある。さらにこの二つの行為が「真剣勝負の精神」を損ねている元凶であると申しました。
これに対して、いわゆる「三所避け」戦法に対しては、「左胴技を奨励すればよい」ということがよく言われます。また実際に左胴技を駆使した試合もよく目に触れるようになり、有効打突の要件・要素にかなえば一本と認められています。しかし″これを当然の道理としてよいものか″という疑問を投げかけたのが前々回までのあらすじです。
ご存じのように「剣道試合・審判規則」では、胴部の打突部位を「右胴および左胴」と記され、ルールの上では分け隔てなくあつかわれております。しかし、われわれが今まで培ってきた剣道観では、どうしても右胴を「順」、左胴を「逆」と考えてしまうところがあります。
一方、野球やゴルフの例をあげるまでもなく、棒あるいは得物を右手前左手後に持って″振る″という身体技法としては、左胴打ちのような右からの振りの方が自然といえます。打ちの正確さと打撃力の強さを考えれば当然のことでしょう。また、剣道の経験が全くない人に竹刀を持たせ、胴を空けて打たせようとすると必ずといってよいほど左胴を打ってきます。このように自然というか本能のおもむくままでは、右手と左手が交差する、右胴打ちのような振り方にはなりません。われわれの持っている胴技の順逆観は、剣道を習い始めた当初から、右胴打ちばかり練習させられたためではないでしょうか。そして知らず識らず、練習をしない左胴打ちに違和感を持つ″習性″がついたものと考えられます。
また昔習った先生から、「侍は左腰に刀を差しており、鞘があるので切れないから、技として教えなかった」という話を聞いたことが思い出されます。私どもはこの話が妙に腑に落ち、右胴が「順」で左胴が「逆」という考え方が″刷り込み″となって深く刻印されています。しかし最近になって、「左胴を逆胴と言い出したのはそれほど古い話ではなく、むしろ戦後になってからだ」ということを聞くにおよびました。そういえば刀の操作においても右上からの「袈裟懸け」が切り下ろしの主流であったことなども合わせて推察すると、″左腰に鞘″の話はどうもこじつけのような気もします。
では、なぜ、本能的というか殺傷力が高い武術的な振りで発する左胴を「逆」といい、その反対の非武術的な振り出しの右胴を「順」とわきまえるに至ったのでしょう。
筆者は、これが現代剣道、いや、これからの剣道を考える上で、最大の″キーポイント″であると思うものです。
それを語る前に、剣道の近代史を紐解き、現代に至るまでの変遷を見てみましょう。
幕末から明治へ、侍の時代が終焉し、維新政府による諸制度の改革と欧化思想のなかで、″廃刀″の世となります。剣術は旧時代の遺物とみられ、衰退の一途をたどります。おりしも明治10年(1877)の西南の役における警視庁抜刀隊の活躍が、剣術再評価の先がけとなった話は有名です。その後、武術の教育性が認められ、明治28年(1895)に武術の全国的な普及と発展のため、京都に武徳会が設立されました。そして明治44年(1911)には、中学校の正科教材に採り入れられ、徐々に一般国民の中に浸透していきます。そのような進展のなか、「剣術」から「剣道」へ名称変更し、「術」から「道」への質的変革の過程を経ますが、昭和20年(1945)の敗戦により一時期中止やむなきに至ります。その後の経緯については、本欄第5回(2007年12月号)から第7回(2008年2月号)をもう一度ご覧ください。
(つづく)
*この『剣道みちしるべ』は、2007年8月〜2010年1月まで30回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。