図 書
剣道みちしるべ
第16回 剣道の真価
総務・広報編集小委員会(当時)真砂 威
剣道はその発展過程で、時勢を敏感に受け入れつつ″洗練″の道を歩んできました。しかし、その洗練の道も一方では、″軟弱化″と危惧する声も聞こえてきます。
そこで前回は、剣道軟弱化への懸念にお応えしたかたちで、警察の逮捕術試合を取りあげ、剣道の習熟者が見事逮捕術を使いこなしているという事実をお伝えしました。通常は暴力を否定し、人間形成に根ざす洗練を求めた剣道の修業を続けながらも、他方では、術への″先祖返り″ともいえる赤裸々な戦いをいとわず、術と道を一体化させんとする警察官としての職責を全うしています。
そこで前回、逮捕術の試合は「間合・体さばき・打ち込みという剣道的要素が強く、逮捕術の選手は圧倒的多数で剣道の熟練者で占められている」と述べたことについて、ある読者から、次の文章を加えるべきだと檄文をいただきましたので、そのまま掲載させていただきます。
〈剣道が時代の変遷により、量質において変容をきたすことがあっても、″気合″とか″相手の目を直視″するという気迫全般を修錬の要とするかぎりにおいては、剣道はいかなる面においても実効的である。戦後マッカーサーが剣道を禁止したのは、新聞インタビューに答えて、剣道の″掛け声″これが米国軍隊の恐怖であった、相手を直視し気合をこめた掛け声は、武器を超える恐ろしさであった。で、マッカーサーは剣道を禁止したと書いていたこと、確かに記憶しています。剣道の眼力や気迫は、無駄なき集中力と 懸待一致の境地を生む源として、いつの時代にも求められるものではありませんか。暴力を超えるものです〉
ありがとうございます。筆者もそのことが一番言いたかったことです。後押ししていただいたようで非常に心強く感じました。たしかにこの連載を始めて一年余り経ちますが、「気合」や「気迫」という言葉は一切使っていません。決して意図的ではないのですが、「気」に関わる問題は難しいので、浅学な筆者としては、無意識に避けていたのかもしれません。まったく仰せのとおりです。
気は剣道の中核をなしていると言われていますが、″曰く言い難し″で、なかなか言語で的確に表現することはできません。マッカーサーは、剣道の「掛け声」を気合そのものと感じ取ったものと推察されます。(剣道禁止の経緯は、第5回参照)剣道で繰り出す技そのものは、あくまでも枝葉部分であり、根幹は、何ものにも屈せず立ち向かう気迫を錬ること、これが実効性に直結する。そしてその気迫を錬るには、″気合を入れて相手の目を直視する″日々の修業。まさにこれが剣道の真価と言えるのではないでしょうか。
剣道はいくら洗練の道へと昇華しても、気合や気迫を礎とするかぎりにおいては、必ず術としての実効性は担保されると申し上げ、「術」と「道」の関係についての一応の決着とさせていただきます。
さて次は、この「相手の目を直視する」教育的効果について考えてみたいと思います。
最近の子どもは、他人とまともに向かい合えない、といわれています。携帯電話やインターネットが普及する裏で、対人関係のあり方に問題が生じてまいりました。相手の顔を見ないで行うコミュニケーション手段による弊害はあらゆるところで指摘されています。しかし、その利便さが先立ち、いまだ決定的な解決策を見いだせないまま手をこまねいているのが現状です。人と話をする場合、相手の顔を見ながら話をするということを学ばないと、人と人との信頼関係は生まれてきません。その点剣道は、相手から目を離したら成り立ちません。剣道はその点においても教育への名乗りを上げるべきだと考えます。間近に迫る武道必修化の時代に、剣道は大きく貢献できることをアピールすべきではないでしょうか。
(つづく)
懸待一致:第11回参照
*この『剣道みちしるべ』は、2007年8月〜2010年1月まで30回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。