図 書
剣道みちしるべ
第17回 目付けについて
総務・広報編集小委員会(当時)
真砂 威
携帯電話やインターネットの普及、またそれに加えゲーム機の氾濫などにより仮想現実的な個人空間が広がり、対人関係のあり方にさまざまな問題が生じています。
現在の子どもたちは、一人ひとりが孤立していて、相手の目をじっくり見る機会などほとんどなくなっているのが現状です。ゲーム機の世界では、相手の目を見ることなく、つぎつぎと″決断と実行″を繰り返しています。ゲーム機の中には人間の目は存在しません。ゲームに没頭する彼らは、その遊びの中で相手の目を見ることもなく、ボタンを押すだけで敵をやっつけ思いを晴らしているのです。話がとびますが、将来この世代の子たちが仮想現実感覚のまま″核兵器のボタンを押さない″と、誰も断言することはできません。こうした心配が無用となるよう、いま剣道が大きく貢献すべきときであると考えます。
本年(2008)7月、全剣連が発行した『剣道指導要領』では、「目付け」について次のように記されています。
〈古くから「目は心の窓」と言われるように、目は心の動きを最もよく現わすところである。剣道においては「一眼二足三胆四力」といわれ、目の働きは大切な要素として教えられている。目の付け方は、相手の心の発動、動作の起こりを察知する上で重要視され、古来より各流派、伝書によって種々教え継がれている。
…目付けは、相手の顔(特に目)を中心に、相手の全体を見るようにするのが基本である〉
剣道では、その重要度に順番をつけ、「眼」を一番目にあげています。これがすごいところです。また「目は心の鏡」とも言われ、目を見ると、その人の心のほどがよくわかり、心を映し出す鏡のようなものととらえられています。
さらに「目を見ると嘘がつけない」とも言われています。ですから逆に、「脇目付け(帯の矩)」といって、意図的に視線をはずすことも教えの中に含まれているほどです。それだけ目のはたらきが重要であるということの裏返しでしょう。
大保木輝雄氏は、その著『武の素描』(日本武道館発行)、[武道の「場」が意味するもの]の「間・場・気について」の中で
〈武道の世界では、「仮想敵」を立て、見ることに執着する特別な非日常的時空間を設定し、鍛練することを常とする。そこには、人間の深層部分を顕在化させ、その本性を見ようとする働きが生ずる〉
と述べています。
さらに「間」について、まず日常生活において、他人と視線を交えることについての奥深さを論じたうえで、「武道の間」について、次のように述べています。
〈武道では、相対し、向かい合い、目を合わせることが前提となっている。日常的な世界とは一線を画する特殊な世界なのだ。乱暴な言い方をすると、日常での喧嘩の状況が武道の出発点となっているのである。日常ではあってはならないことをあえて「武道」では出発点とし、その場から生まれてくる特殊な人間の関係性を、技の応酬を媒介として、大事にしているのである。
人は常に関係性の中で生き、事や物を造りあげてきている。相対し向かい合わない関係からは何も生まれない。なぜなら、我々は常に「相対」の世界に生かされているのだから。人間は他者との関係において初めて存在するのであり、他者からの圧力が自分の活力となる。そのような関係性こそが大切なのであり、子どもたちの生活を含めて、現代社会に一番欠けつつあるのがこの「関係性」である。
相対し、目と目を合わせ、お互いの出会う「場」が人間の関係を成立させていると言ってよい〉
ちょっと長い引用になってしまいましたが、読者のみなさん、ここに″現代人の忘れもの″があると思われませんか。剣道は、「礼にはじまり礼におわる」といって、ややもすれば礼儀作法をはじめとした躾教育のみに役割があるかのように受け取られがちです。相手と竹刀を交え、相手の目を直視し、気合をかけ合い、勝負を論ずる。こうした対峙の場をもつことが″人間力向上″に役立つことも前面に出していくべきではないでしょうか。
(つづく)
脇目付け(帯の矩)…上手に対してまともに相手の顔(目)を見ると、こちらの心が目を通して察知されるおそれがあるので、その場合に、相手の帯(腰)のあたりに目をつけて、相手と視線を合わさないようにする目付けである。(『剣道指導要領』より)
*この『剣道みちしるべ』は、2007年8月〜2010年1月まで30回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。