図 書
剣道みちしるべ
第22回 侍の国、日本
総務・広報編集小委員会(当時) 真砂 威
ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)第2回大会で日本が優勝し、2006年の第1回大会に続く連覇を達成しました。原 辰徳日本代表監督が命名した『侍ジャパン』の活躍は世界でも大きく報じられました。けっして勝利をあきらめないで戦う日本男児=侍ジャパンの戦いぶりは、大いに日本人を奮い立たせ、勇気と自信を与えてくれました。
わが国では、ときに人の士気を鼓舞し、また道徳的に目覚めさせる掛け言葉として「侍(武士)」と称してきました。また人物を評するとき、「彼は侍だ」とか「古武士の風格がある」などと誉め言葉として使われています。これは知らず知らずのうちに「武士道」というものが日本人の精神的な基盤となっているゆえではないでしょうか。武士道は、すでに遠い昔に武士階級の倫理としては消えてしまったはずのものですが、その習わしは現代にいたる道徳に受け継がれているのではないかと考えられます。それは、武士の倫理というより日本人の心性と言ってもよいといえます。 新渡戸稲造著『武士道』は、日本人がこの心性を持つに至った経緯を「武士道の感化」でこのように述べています。
〈武士道の徳は我が国民生活の一般的水準より遙かに高きものであるが、…中略…武士階級を照したる倫理体系は時をふるにしたがい大衆の間から追随者を惹きつけた。…中略…いかなる社会的階級も道徳的感化の伝播力を拒否しえない。…中略…武士道はその最初発生したる社会階級より多様の道を通りて流下し、大衆の間に酵母として作用し、全人民に対する道徳的標準を供給した。武士道は最初は選良(エリート)の光栄として始まったが、時をふるにしたがい国民全般の渇仰および霊感となった。〉
時は経ち、混迷を深め暗雲立ち込める今日の危機的状況の中、それを打ち破る強者=侍の出現を待ち望む国民。この思いを先取りした銘打ち「侍ジャパン」は、まことに時宜を得たものであり、「侍ジャパン」の活躍で、久々に日本国中が明るいニュースに湧きました。
が、剣道人として、なにか″侍″のお株を奪われたような気になる、というのは小欄筆者だけの思いでしょうか。侍といえば、わが国のあらゆる武道やスポーツの中で、その最たるものが剣道であると考えるからです。刀は侍の象徴であり、刀による戦いのすべが剣術(撃剣)となり、その剣術を競技にかえあるいは人間修養の道へと進化してきたものが剣道であることは紛れもない事実です。また、剣道の装いや立居振舞すべてにわたった修業形式は、侍を原形としています。ですから野球の選手やスポーツマンに「侍」が冠されることに、どうしても違和感を持ってしまうのかもしれません。
しかし、そこのところを 中林信二氏は、その著『武道のすすめ』で次のように述べています。
〈よく指摘されるように、日本人の行うスポーツは、アメリカ人やヨーロッパ人のスポーツとは随分そのとらえ方や考え方に違いがある。日本人はガムをかみながらプレーできないし、練習場で口笛を吹いたり、ふざけたりしない。また用具に対しても、ただの道具ではなく、何か生命の宿っているように大切に取り扱う。野球にしても体操にしても、日本人の練習に対する態度は非常に「求道的」である。まさに、日本人はスポーツを武道的に行っている。また、武道的要素を多く含んだスポーツやプレーに日本人が魅かれているのではないだろうか。武道はスポーツ化したと同時に、スポーツは武道化して日本人の所有となっているといっても過言ではなかろう。〉
昨今、ガムをかみながらプレーする日本人のプロ野球選手はよく見かけるものの、総じて「日本人はスポーツを武道的に行っている」との言及には頷かせられるものがあります。
さて、日本人のスポーツや身体運動系の志向するものが武道的であるとするならば、われわれ剣道は、もっともっと求道的であるべきでないかと考えるものです。またそういった剣道が行われることこそ日本人が待ち望んでいる教育=武道ではないでしょうか。まさにあの″侍コール″は剣道に突きつけられている課題だと真摯に受け止めるべきではないでしょうか。
(つづく)
『武士道』新渡戸稲造著、矢内原忠雄訳(岩波文庫)
『武道のすすめ』中林信二先生遺作集刊行会発行
*この『剣道みちしるべ』は、2007年8月〜2010年1月まで30回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。