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剣道みちしるべ
第26回 恥と名誉について
総務・広報編集小委員会(当時) 真砂 威
文化人類学者ルース・ベネディクトの説によれば、わが国は「世間様の目」を道徳の原動力とした「恥の文化」の土壌にあります。そうであるならば、世間のことごとくが″恥知らず″の風潮となってきた場合、道徳の基準自体が低下し、国民の道徳が堕ちるのは当然のことです。今まさに、そのような状況下にあるといえます。ここに、われわれの陥りやすい「節操の危うさ」があり、またそれが、前回述べました宗教的な「大らかさ」のもつ負の側面といえましょう。
そこで「武士道」の登場となるわけです。が、武士道の詳述は専門書にお任せするとして、ここでは第22回(侍の国、日本)、第23回(道徳の国、日本)で述べたにとどめます。
武士道を極端に美化することは避けねばならないとしても、往時において武士の道徳は、国民の一般的水準よりはるかに高いものでありました。それゆえに時代時代の有為転変をのりこえ、ついには万民を感化、啓発し、道徳的基準を与えることとなりました。
ところで恥の話にもどりますが、武士道における徳には、すべて恥の意識が働いていました。武士道に、「廉恥を重んじ名利をはなれて義勇を励む」や「恥を知るものが義を守る」という教えがあります。一方、その対極にあるとされる「名誉」ですが、ここでは恥と同義にあつかわれていることがうかがわれます。また、「恥」を辞書で調べると、「(過失や失敗をして)面目を失うこと。名誉をけがされること。不名誉。恥辱。侮辱。名誉を重んずること。廉恥心。」(『広辞苑』〈抜粋〉)と記されています。
どうやら日本人の恥の意識は、恥をかかないように世間の目を気にするといっただけの頼りないものではなく、「名誉を重んずる」もっと前向きで積極的なものであることがわかります。とうてい、ベネディクトのいう「罪」と「恥」の対比では解決できるのもではありません。
その「名誉」という道徳的尊厳(人格の高さに対する自覚)が教えの根幹にあるならば、武士道は、日本人のもつ節操の危うさを克服してあまりあるものといえます。
そこで武士道と不可分なものとして、見直されたのが「武道」であります。平成24年実施の必修化に向け、各武道界は余念なくその準備を進めているところですが、その前に過去としっかり向き合わなければなりません。
武士という階層そのものが存在しない今の時代に、武士道を必要以上に言い立てることは、徒な復古調の気運を呼び起こすことにもなりかねません。
戦後とりわけ剣道は、国家主義、軍国主義に加担していたという理由で禁止され、指導的立場にあった人たちは、公職追放という辛酸を味わいました。あらぬ誤解を受けたものです。が、世の中には、まだ誤解のとけていない人たちが少なからずいます。このたび武道が必修化されることについては、われわれ剣道人には想像できないくらいの波紋を投じていることもたしかです。まずわれわれは、その人たちの誤解をとくことから始めなければなりません。
戦後数年の空白期間を置き、昭和27年に全剣連が発足し、その翌年には、純粋スポーツであることを強調した上で、文部省より、高校・大学で実施することが認められました。中学校では昭和32年に認められます。そして30年あまりの歳月を経て、平成元年に「格技」から「武道」へと名称が変更となり、さらに20年、ようやくこのたびの必修化へこぎ着けました。
ここで、警察の取り組む姿勢の一端をご紹介いたします。警察では、昭和28年5月から剣道の訓練が再開されました。警察は職務上、もっとも武士道を後継すべき組織であったわけです。が、あえて武士道を公言することなく、犯人逮捕のための基礎的技能の修得という名目の下で武道訓練を実施してきました。然はさりながら、武道訓練を鋭意積み重ねることにより心身を錬磨し、警察官に最も必要とされる、「正々堂々」「勇猛果敢」「潔さ」「廉恥」といった武士道的な態度や精神を培い、治安の維持に貢献してきました。
万葉集に「言挙げせずともとしは栄えむ」とあるように、学校教育においても、ことさらに武士道を振りかざすことなく、自然な形で剣道による教育の実をあげたいものです。
(つづく)
*この『剣道みちしるべ』は、2007年8月〜2010年1月まで30回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。