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広報・資料小委員会コラム
第6回 「伝統」について考える
委員 湯浅 晃
「武道は日本の伝統文化である」ということに異論を唱える人はいないでしょう。では、武道において「伝統」ということが強く意識され、その保存・継承に大きな努力が払われたのはどのような時であったのでしょうか。本コラムでは、近代以降の武道の歴史をふり返りながら「伝統意識」がとくに高まった4つの時期について、国家の政治体制や社会状況、文化状況などと関連づけて述べたいと思います。
1.1882(明治15)年前後————日本の近代化と「伝統」の創造
明治維新にともなって版籍奉還、廃藩置県により永らく続いた封建制が崩壊し、「富国強兵」のスローガンのもと西洋諸国の制度や文明を積極的に採り入れて学制・兵制・税制の改革、殖産興業などの施策が急速に進められました。そして、武士を主たる担い手としていた武道だけではなく、多くの伝統文化は一時衰退しました。しかし、1881年10月の「明治14年の政変」・「国会開設の勅諭」の前後から宮中儀礼等の「旧慣保存」をはじめ、さまざまな領域での伝統保存の動きがはじまります。このことは、10年後という期限を切った国会の開設やその前提となる憲法の制定の間に、日本が欧米諸国から近代国民国家として認められるためには、軍事・経済的な発展だけではなく、日本独自の文化的「伝統」を示す必要性があったからだといわれています。
明治15年といえば、嘉納治五郎が「講道館」を、山岡鉄舟が「春風館」を設立した年です。嘉納は経験則に基づいた従来の柔術指導ではなく、力学や教育学など西洋的合理主義にもとづいた柔道原理を解明し指導法を確立するなど、近代教育としての「柔道」を創造しました。一方、山岡は幕末期のような暴力性を顕現した剣術や、明治初年に流行した見世物的な興行撃剣ではなく、竹刀剣術のなかにおいても「心外無刀」という日本の近世的な「心法」への回帰をめざして自己修養的剣術を提唱しました。嘉納治五郎と山岡鉄舟、両者のめざした方向性は違うものの、この明治15年という日本の近代国民国家形成期という時代において、新しい武道の伝統を創造したといえます。
2.1952(昭和27)年前後————日本の独立と新たな「伝統の創造」
1945(昭和20)年に第2次世界大戦は終結しました。戦時中に極めて制限されていた文化活動は堰を切ったように活発化し、伝統文化の復活への動きがはじまります。スポーツにおいては野球や水泳、球技などは1946(昭和21)年〜1947(昭和22)年頃には早くも活動が再開される一方で、武道についてはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)より、①学校や社会における武道の禁止、②「武道」という名称の使用禁止、③大日本武徳会の解散命令、などの厳しい制限がなされました。剣道については戦時中に「戦技」として訓練されたことから、とくに厳しい禁止措置がとられました。
柔道、弓道においては、1948(昭和23)年に講道館主催の第1回日本柔道選手権大会が開催され、翌1949(昭和24)年には、全日本柔道連盟と全日本弓道連盟が発足しましたが、剣道は戦技のイメージが払拭されずGHQから活動の承認を得るには困難を極めました。そこで、GHQとの交渉に当たった剣道関係者は、「剣道」という名前を捨てて「撓競技」というスポーツ競技を「発明」し、1950(昭和25)年に全日本撓競技連盟が創立されました。撓競技は、剣道のスポーツ化をめざし、①弾力性のある「袋しない」の開発(安全性の確保)、②フェンシングの道具を模した新たな防具の開発と、シャツ・ズボン・運動靴の着用(イメージのスポーツ化)、③「時間制」の試合方法の採用(一定の時間に得点の多い方が勝ちとする方法、試合のスポーツ化)、④3人制審判の採用(公平性の担保)など、新たな競技を創造しました。
このような、剣道をスポーツ化しようとする関係者の努力が報われ、GHQも剣道を拒絶する態度を軟化させます。そして、1951(昭和26)年9月8日にサンフランシスコ平和条約が調印、翌年1952(昭和27)年4月28日にこれが発効され日本が独立した際に、文部省は「しない競技」という名称で中学校以上の学校において体育の教材として認めます。そして、同年10月14日に「全日本剣道連盟」(以下、「全剣連」)の結成が許されました。全剣連結成当時の専務理事(のちに会長職)であった庄子宗光氏は、「終戦後の剣道」は単なる「復活ではなく」、新しい生命を注入した「新しい出発」であり、体育・スポーツとしての剣道の出発であったといっています(『改訂新版 剣道百年』時事通信社、1976)。そして、競技規則や競技方法についてはスポーツを志向した撓競技から援用したものが多いことから、撓競技の要素を積極的に採り入れて戦後の剣道文化が創造されたといえるでしょう。
全剣連結成の翌年1953(昭和28)年には、高等学校以上の学校で「剣道」という名称で体育教材としての実施が認められた後、1957(昭和32)年に文部省は「しない競技」と「剣道」を整理統合して、「学校剣道」という名称で中学・高校で正科体育として実施することを認めました。ここに、「剣道」という名称が学校においても社会においても完全に復活したといえます。ただし、剣道や柔道などの競技の総称としては「格技」という名称が採用され、「武道」という名称が学校において正式に認められるようになるのはまだまだ後のことでした。
3.1964(昭和39)年〜1970(昭和45)年前後————国際社会に向けての「伝統文化」の発信
第2次世界大戦後の社会・経済の混乱を乗り越えて、わが国は1955(昭和30)年頃から「東洋の奇跡」ともいわれた高度経済成長期に入り、政治・経済のみならず文化の領域でも国際化を進展させて行きます。そして、わが国が敗戦を乗り越え、欧米に比肩する経済的・文化的水準に達したことを国内外に強くアピールしたイベントが「第18回オリンピック東京大会」(1964・昭和39年)でした。
この東京オリンピックの開催を控えて、政府は所得倍増計画の策定や工業振興など急速な近代化を図り、世界初の高速鉄道である東海道新幹線の開通、高速道路、東京モノレールなど交通インフラの整備などを急速に進め、東京都心部の大改造をめざしました。
市川崑監督の記録映画『東京オリンピック』(1965)は、古いビルの解体現場の映像から始まり、新たに建設された近代的な意匠の国立競技場、代々木競技場が映し出されます。この映画には、古き日本を破壊し、新しい日本を建設していく力強い鼓動が象徴的に表現されており、日本人がこのオリンピックに抱いていた心情をよく表わしています。
武道に関して特記すべきことは、柔道がオリンピックの正式種目として認められたことです。そして、「日本武道館」という武道の殿堂の完成は、「武道」という言葉を社会に定着させたといえます。完成された日本武道館は、外観は法隆寺の夢殿を、屋根は富士山の裾野をイメージさせる日本の伝統的な様式美を感じさせます。代々木競技場などの近代的な建築物を合わせ見た当時の人々は、近代化と伝統がみごとに融合した新しい近未来を予感したのではないでしょうか。また、剣道や弓道、居合などのデモンストレーションによって、世界のスポーツの祭典の場で日本の伝統文化である武道が紹介されました。このオリンピックは、日本の戦後復興の証としてだけではなく、国際化されつつある日本の「伝統」を国内外に発信したといえます。
剣道の国際化に関してみれば、東京オリンピックから少し遅れて6年後の1970(昭和45)年に世界剣道連盟(IKFのちにFIK)が創立、同時に第1回世界剣道選手権大会(この大会の記録映像は、全剣連公式YouTubeチャンネルで公開中)が開催され、剣道の国際交流が本格化しました。この時、世界剣道連盟には17の国・地域が加盟、大会には18の国・地域が参加しました。
注目すべきは、この大会の団体試合はオリンピックの柔道会場であった東京・日本武道館で行われましたが、個人試合は日本万国博覧会が開催中の大阪府で行われ、万博会場においても外国人剣士による公開演武が行われました。つまり、戦後・昭和の2大世界的イベントともいうべき東京オリンピックと万国博覧会において、柔道と剣道の2つの武道の世界大会が開催されたということです。この世界中の人々が集うなかで行われた2つのイベントは、日本の伝統文化である柔道と剣道の国際的発展に大きな役割を果たしたといえます。
4.2006(平成18)年前後————学校教育における「伝統」の重視
1947(昭和22)年に制定された「教育基本法」は、2006(平成18)年12月に制定以来はじめての、そして全面的な改正が行われました。この「教育基本法」に基づいて、2008(平成20)年3月「学習指導要領」が改正され、中学校・保健体育科において「武道」は必修化されました。「教育基本法」と「学習指導要領」の改正における「伝統重視」の方針は、国際化が著しく進展した現代において国際的な協調・協力関係を築くためには異文化を理解するとともに、自国の歴史や伝統、文化についても正しい理解が必要であるという認識のもとに示されたものでした。この日本の伝統重視の方向性は、すでに1987(昭和62)年12月の教育課程審議会答申において示されており、これを承けて改正された「学習指導要領」(1989・平成元年)において、1958(昭和33)年以来、保健体育科の運動領域名として使用されていた「格技」の名称を「武道」に改め、「我が国固有の文化」としての特性を生かした指導を求めました。ここに、戦後44年を経て文部科学省所管の学校教育の中で「武道」の名称が復活しました。
じつは、武道の正科編入のはたらきかけは、1961(昭和36)年の日本武道館設立の準備段階から進められており、東京オリンピック後も国会に請願書を提出するなどの活動が続けられていました。このような、武道の正科編入への動きは、わたし達一般人には眼に見えない地下水脈のように脈々と流れており、2006(平成18)年の「教育基本法の改正」という戦後の最も大きな教育改革の際に噴出したといえるでしょう。
5.まとめにかえて
現代剣道は、時代や社会への適合と変化の歴史を経て、いいかえれば「伝統の継承と変革」の繰り返しのなかで、①勝敗を争う競技スポーツとしての性格(競技性)、②技の熟練度や美しさを表現する芸術的性格(芸術性)、③人間形成的性格(教育性)、などを複合的にもった「ハイブリッド文化」(井上俊『武道の誕生』吉川弘文館、2004)として成立しています。この文化の複合性が、剣道の幅を広く奥行きを深くし、老若男女を問わず多数の人々に愛されてきた理由であると同時に、若年層の人たちにとっては剣道を解りにくいものにしているのではないでしょか。「剣道はかくあるべし」というように画一的な捉え方を強要することは堅苦しく、多様な学習者に対して説得力をもちません。一方、若年層に対して競技性、演武性、教育性のすべてを求めることも無理な話です。正しい歴史認識からすれば、色々な剣道の捉え方があってよいという懐の深さこそ、剣道文化の真骨頂なのではないでしょうか。
文化には、人をつくり社会をつくるという力があります。この「文化力」は伝える人の力量がなければいい方向には働きません。剣道の指導者は文化の伝達者であるがゆえに、人の行方、社会の行方を左右する大きな責務を負っているといえます。自分が習い育った環境と大きく異なる現代に生きる青少年を相手に、説得力をもって剣道文化を伝えていくには、剣道がハイブリッド文化であり、その複合性のゆえに魅力のある文化であることを繰り返し語りかける必要があります。そして、年齢や習熟段階に応じて目標とすべき剣道像、人間像を分かり易く説明することが剣道の文化力を高めることに繋がるものと思います。
2012(平成24)年に完全実施された「武道の必修化」ですが、当時中学生であった子ども達は、あと40年後には60歳を越えます。つまり、約40年後には日本で教育を受けた人々の多数が武道の経験者となるわけです。その時の武道の姿はどのようになっているのでしょうか。武道の行末は若い指導者の柔軟な感性と熱い情熱、そして努力にかかっています。