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広報・資料小委員会コラム
第7回 柳生新陰流の研究と柳生延春先生と
委員 加藤 純一
本コラム第1回の大保木輝雄委員長の書き出しに、資料小委員会の発足に触れている箇所があります。1987(昭和62)年に総務委員会の中に広報委員会とともに設置された由、私はその年に大学院を修了しました。当然ながら就職先はまだ決まっておりませんでした。その時に坪井三郎資料委員会初代委員長から資料整理のアルバイトをしないかとお声をかけていただいたのが、私とこの委員会との出会いでした。1990(平成2)年に正式の委員(幹事)に就任するまで日本武道館に通い、まだ今のようなPCの普及していない頃でしたので収集されていた資料を手書きで整理し、それを家に持ち帰ってワープロに打ち込みそれを印刷をする、といった作業を繰り返していたのを思い出します。
私は柳生新陰流の研究を続けてきました。先代の柳生延春先生には大変お世話になり、事理両面で沢山のご指導を賜りました。実は、今回のコラム執筆に向けて資料を整理している際に、延春先生から頂戴したお手紙が出てきました。30年近く前にいただいたものです。改めて読み返してみますと、延春先生の筆跡や筆致からは気迫が感じられ、またお人柄が滲み出ていることがよくわかりました。そして、自分自身の進歩のなさに落ち込みもしました。
そこで、今回は、柳生延春先生からいただいたお手紙をもとに先生のお人柄を振り返りつつ、私自身が取り組んできた研究の一端を紹介させていただくことにします。
最初は、渡邊一郎教授退官記念会で発行した『日本武道学研究』をお読みになった時のものです。そこには以下のようにあります。
「先日は『日本武道学研究』御恵贈下さり有難うございました。貴兄の御苦心の論文が堂々と収められて居り、今後の御活躍が期待される次第であります。早速大保木氏の論文から読み始めました。さすがに剣道に精進して居られる先生だけに見事な論説にて感心いたしました。中林先生の論稿でもそうでしたが、古流の『かた』についてのとらえ方はなお一考して欲しいと存じます。詳細は拝眉の折に申し上げます」(1988年4月18日)
私はこの時「尾張藩新陰柳生流の勢法について ―長岡房成『刀佱録勢法篇』を中心に―」と題して、尾張柳生家の兵法補佐家出身である長岡房成が著した『刀佱録勢法篇』の読み解きを通して、18世紀に柳生新陰流を中興した房成の復古調的な「勢法」の性質を明らかにしました。道統を継承されてこられた延春先生にとって、資料分析を通して論じる「かた」はまだまだ本物を映し取ったものではないとお感じになったことでしょう。なお、委員長の大保木輝雄先生は私の恩師の一人でもあります。先生は、ここでは「武芸心法論についての一考察 ―事的世界の解釈をめぐって―」と題し、武芸の伝書を「事的世界」の描写と把え、そこに詳述される本体としての「心法」について考察しています。また、中林信二先生は既に鬼籍に入られておりましたので、ここは私が以前に贈呈した『武道のすすめ』(中林信二先生遺作集刊行会;1987)の中で論じられた「武道の特性〈型について〉」を指しているものと思われます。
その後、私は『柳生新陰流の総合的研究 ―心法と技法の統一を中心として―』で学位を取得しました。これは、一言で言えば、截相の場という特殊な時空間が前提として存在する武道においては、心は重層的に捉えられるとして、武道特有の心身観、心技統一の理論を柳生新陰流より読み解いたものです。この論考に、延春先生のご指摘が反映されたことは言うまでもありません。
二つ目に紹介するお手紙ですが、大保木先生から『iichiko37』(「場所とは何か」1995)に柳生先生と清水博氏との対談が掲載されているとお話を受け、早速読み進め、そのことについて延春先生にお手紙を書いたようなのですが、そのことに対する「拝復」です。
「拝復 貴信を読み、全く思いもかけぬご意見にて驚き入りました。小生は清水先生とは二度お目にかゝり、当流の稽古を二度見て頂いただけですが、キャッスル・ナゴヤにて名古屋城の天守閣を眼前に見ながら四時間の対談後、名鉄体育館道場でありましたが、剣道に少しもお若い時は興味を持たれなかった先生が当流兵法の真髄を的確に見てとられ、確認されたことに心から敬意を表した次第であります。その一週間後、東京の「場」の研究所に於て対談致したのが「いいちこ」NO37であります。その後、先生はドイツの大学にてこの「理」について講演され大変な反響があったとのこと、(中略)。小生は伝来の当流兵法の『理』と『刀法』が世界の科学・技術の尖端を切り開く『理論』の形成に努力して居られる先生の御研究に少しでも寄与できれば、流祖以来代々の祖師もどんなによろこばれることと思います。来月十日是非東京雄飛館道場に御来場下さり、充分貴兄のご意見を聞かせて下さるようお願いいたします。」(1995年11月20日)
当時、清水博氏の「場の理論」は私の関心事とも重なるところがあり、若輩者の私は何かを延春先生に申し上げたのでしょう。清水氏は「場の研究所」を主催されており、偶然に関西柳生会の設立にご尽力された永田鎮也氏とお会いすることで、延春先生とのご縁を得たようです。敵が逃げられないようにするために「先々の先」という位と、「迎え」という手段が施される、これは無限定なものに対処するためにいかに「シナリオ」を作るかということと密接に関係する、と言うことです。このお三方の鼎談のほうは、柳生延春『柳生新陰流道眼』(島津書房、1996)に掲載されています。
残念なことは、今このお手紙を手にしても、そのようなことがあったのかと思うだけで、その後に雄飛館道場に出向きどんなお話をしたかも全く記憶にありません。しかし、柳生先生には本当にお世話になりましたし、拙稿が出来上げれば厚顔にもお送りしてご意見を頂戴するなど、今思えば厚かましいことをしていたと思いますが、一方でとても貴重な時間をいただいていたことに感謝しています。
さて、この「雄飛館道場」の館長は範士八段の池永晃一郎先生で、池永先生は警視庁の剣道師範でもいらっしゃいました。池永先生が柳生新陰流の稽古をされているということを聞きつけ警視庁の剣道師範室を訪ね、毎週金曜の夜に板橋にある雄飛館道場で稽古をすることが許されました。23歳の時でした。その後、毎月上京される柳生延春先生を紹介していただき、柳生先生とのご縁をいただいたと言うわけです。池永先生も柳生先生同様に文武の両方に長けた方で、柳生新陰流のことを色々と教わりました。ご自身も、勢法のことを考え、実践されていたことを思い出します。
柳生新陰流の勢法に長岡房成考案の「相雷刀・八勢法」があります。その第一「相雷刀」には「彼我相共ニ雷刀ニ立ツ。故ニ相雷刀ト謂フ」とあります。「雷刀」とは上段の構えのことです。初学者はこの勢法から学び始めるのですが、この勢法には柳生新陰流の極意である「合撃」が含まれています。この「合撃」について柳生先生は前述の『柳生新陰流道眼』の中で次のように述べています。
「敵も真直ぐ截込んで来た場合、特別に合撃という技で勝つわけです。これも自分の真直ぐを截通します。これは一番難しい。まず、最初に私どもの門に入った方が習うのが、この最高に難しい合撃です。これはお互いに雷刀に構えます。お互いに遠くから間合いをつめて、相手が真直ぐに截出してくるのを見て、『敵が本当に真直ぐに自分の方に截込んでくるな』というのを正確に見た上で、自分も自分の人中路を真直ぐに截下ろし、敵の太刀に打ち乗って勝つ。正面に相対するわけですから、お互いの中心線が合うわけです。これがずれていると平行線になってしまい、下手をするとお互いが相討ちということが起こります。(中略)相手も真直ぐ、こちらも真直ぐ。そこでお互いにぶつかるわけですね。そこに時間差があるため、敵の太刀の上に打ち乗り、それでこちらが必ず勝つことができるのです。」
合撃とは、相手の真っ直ぐな撃ちを真っ直ぐに撃ち勝つ、ただし相手の真っ直ぐな撃ちを見切ってから撃つので、相手よりも遅れ拍子で掛かることになります。この、相手を撃ち掛からざるを得ない状況にするためには、先に触れた「先々の先」という位と、「迎え」という手段を施すことが必要となってくるわけです。
蛇足を一つ。若気の至りで、柳生先生にこの合撃は刀でもできるのでしょうか、と尋ねたことがありました。先生は何の躊躇いもなく一言、「できなくどうするのですか」(実際は名古屋弁?でもっと砕けた言い方でしたが)とおっしゃいました。柳生宗矩『兵法家伝書』の「転処実に能く幽なり」(宗矩はこの言葉を「兵法の眼也」とし、心の「そつともとまらぬ処」としている)の境地を思い知りました。
私自身、昨年還暦を迎え、当時の延春先生のご年齢に近づいてきて今一度これまでの自分を俯瞰してみますと、自身の研究や剣道に対する姿勢・態度を反省することは当然のこととして、柳生延春先生のように厳しく指導しつつも、一介の者に対しても暖かい言葉を掛け、また真に人を育てる気概があったかと問えば、言葉に詰まります。何事にも、そして誰にでも真摯に向き合う柳生延春先生のお姿を今一度想起し、先生から頂いたご指導に恥じることのないよう、一所懸命に精進しようと思いを新たにした次第です。