「なぜだろう?」と考える事は時々あるが、会社で現場の改善の仕事に就いた時、上司から最初に言われたのは「なぜ」を5回繰り返せという事だった。
現場での〝異常〟は品質不良・機械故障・部品欠品等々色々あるが、どんな場合でも「なぜこれが起きたか」、「それはなぜか」を続けて5回繰り返して答えを求めてゆく。そうすれば1回目には「原因」しか分からないが、5回繰り返せば本当の原因、即ち「真因」に辿り着く。そこで手を打てば再発防止がきちんと出来て2度と同じような異常は起こらない。
この教えは徹底していて、何か起こった時に上司へ報告すると、「なぜだ」としか聞かない。「こうこうです……」と答えると「なぜだ」とまた聞かれる。だから報告する前に自分で5回なぜを繰り返し、その上で対策を取って報告に行く、という事をやらざるを得なくなった。
1年も経つと仕事で「なぜ」、「なぜ」はすっかり身について当たり前になったが、いつの間にか仕事以外でも「なぜだろう?」、「それはなぜ?」を繰り返す事が多くなった。そして「正常」と「異常」を注意深く比較する癖がつき、頭が勝手に動き出して普段余り考えない自分が、いつの間にか色々考えるようになった。子供の頃からいつも親父に「もう少し考えなさい」と叱られていたのが「なぜ?」、「なぜ?」、「どうしよう」と考えるようになった。有難い事である。
仕事の(上司)師匠だったO常務は〝考える事〟を非常に大切にされた方だった。現場で不合理な事、ムダな事を見つけると「なぜこんな事をやらせているか。こうやれば良いじゃないか」と我々を厳しく叱る。翌朝見に来る事が分かっているので、我々は夜遅くまで掛かって言われた通りに直す。すると翌日来て「なぜワシの言う通りにやったのか」とまた叱る。初めての時は皆戸惑った。
S部長が解説をしてくれた。「あれはワシが言った案よりもっと良い案を考えろという事だ」、常に「人の知恵は無限だ」、「どこまで改善のアイデアが出て来るか予測がつかん」と口癖のように言っておられた。
事務所での指示の出し方も「ワシが欲しい結果だけを言う。やり方は自分で考えよ」というものだった。そして「どうしても困ったら聞きに来い」と付け加えられた。
常務の指示は我々事務所にいる部下だけに対するものではなかった。「人の知恵は無限だ。皆に考えさせよ」、「そのためには現場を誰が見ても分かるようにせよ」これは単に整理整頓の事だけではなく、作業自体が正常か異常かを誰の目にも明らかにせよ、という事だ。
これまでやってきた作業の改善を理論化した時、私は大勢の作業員が安全な職場で無理なく一日中続くペースで仕事ができるよう〝人間性尊重〟の考えを実践する事が大切だと書いた。すると「君は『人間尊重』と『人間性尊重』をごっちゃにしている」と言われた。私が書いたのは人間尊重の職場の事であって、人間性尊重とは全く違う。人が他の動物と違うのは〝考える能力〟を有している事で、人間性尊重の職場とは、働いている人が常に色々考える事が出来るようになっている職場の事だ、というのである。だから〝君は何も考えなくて良いから、言われた通り作業をしなさい〟等と言うのは典型的な人間性無視のやり方である。働いている人がいつでも何処でも考える事が出来るよう、更にはそれを実行出来るよう周囲が支える事が大切である、という。
対して、考える事がそんなに大切な事なのか、何も考えずに一心不乱に作業に熱中する事の方が大切な事ではないのか。最初に感じたのはこのような事だった。
しかし、自分が実際に現場の改善の仕事を始め、現場で働いている人達と一緒に作業のやり方等を話し合ったり変更したりすると、彼らが色々考えながら仕事をしている事に気が付いた。もっと言えば誰もが一つや二つは自分の仕事で困っている事があり、またそれをこう直したいというアイデアを持っている。そしてそのアイデアを実行しようと言うと、誰もがみな大変やる気を出し、活き活きとしてくる。そして進め方についても色々意見が出て来る。
日本だけでなく、アメリカではもっと受け入れられた。「君は言われた通りに仕事をやりなさい」と言われ続けてきた作業員達に「アイデアを出せ」、「考えよ」と投げかけると、皆眼がパッチリとなって次々にアイデアが出て来る。
誰もが考える事が好きなのだ。〝人間性の尊重〟は本当だなぁと現場でやってみて悟った。
全日本剣道連盟会長 国際剣道連盟会長
張 富士夫
Fujio CHO