私がアメリカ勤務を命じられたのは1986年、日米間での激しい貿易摩擦の末、日本がアメリカでの現地生産をするという〝政治決着〟で、自動車各社がアメリカ進出を決めた時期だった。
行先はケンタッキー州スコット郡。会社としても初めてのアメリカ工場建設で、すべてが未経験、西も東も分からない中でのスタートだった。約2年半かけて工場を造り、米国人を雇い入れ、訓練し生産を1988年に開始した。その過程で米国人と一緒に仕事をしたり、地域の方々と親しくしたりしながら、色々勉強を重ねた。その中の思い出を1つ2つご紹介してみよう。
現地へ行った当初は、地元のリーダー達と毎日会い、工場建設の諸準備を進めて行ったが、個人的にも親しくなり、私が日本にいた時はよく釣りをした話をすると、スコット郡の郡長に釣りに誘われた。場所は郡長の家の前の川で、ブラックバスを始め、何種かの川魚が釣れるという。
早速釣道具店へ行って道具を揃えたが、店主が「ルアーの方が良い」という事で、投げ竿を購入して郡長の所へ行った。釣りを始めてみると、郡長や何人かいたその友人達は、ウキ釣り生き餌で足元を狙っている。私だけが遠くへルアーを投げているのだが、周りの人達が次々と釣り上げているのに、全く私の仕掛けに魚は当たらない。「あっ、ここではエサ釣りなんだな」と理解したが、私はそちらの道具は持ってない。
日本だったら、こういう場合「ここはこの釣り方の方が良いよ。こちらの仕掛けでよかったら貸して上げるから、やってごらん」位の声を掛けてくれるのに、こちらの人達は、私の方をチラチラ見ているが何も言ってくれない。
『親切じゃないね─』と思いながら、ひたすらルアーを投げ続けていたが1時間位過ぎても何の当たりもない。
とうとうシビレを切らして郡長に「どうしてもルアーはダメだ。エサ釣りの竿を貸してくれない?」と頼んだ。すると、郡長は「えっ、エサ釣りにする? よし、すぐ仕掛けを作るからね。エサも付けてあげる。それからね、ここが一番釣れる。みんなドケドケ。ここでやって」。まるっきり先程と180度の違い。後の時間、魚を釣り上げて楽しんだ。
次の日、昨日の事を思い出しながら考えた。アメリカの人はこちらが口に出すまでは何もしてくれなかった。意思表示してからは、めちゃくちゃ親切だった。どうも「こうしたい」と自分の気持ちを外に出す事が、ここでは大切なんだ。
これは良い経験として仕事を進める時も、米国人の友人と仕事以外で付き合う時も「まずこうやりたい」とか、「これが良いと思っている」とか、自分の意思を明確にする様にした。大変うまく行ったと思っている。黙っていては何も進まない。これが学んだ事である。
数年経った。会社の運営も軌道に乗って順調に進んでいた。ある日、大問題が起きた。日本人の課長がセクハラで訴えられたのだ。日米4人ずつの経営会議でこの問題が報告された時、日米は真っ二つに割れて大激論になった。報告の内容は次の様なものだった。
日本人の課長は英語が十分でなかったため、日系二世の女性を秘書兼通訳として使っていた。彼女の夫は勤めていたミシガンにある工場をレイオフされて、ケンタッキーの彼女の所に来て暮らし始めた。生活費が倍増したからだろうか、ある月曜日、この女性は課長にこう言った。「この土・日は2人合わせて3ドルしかなかったので、一日中テレビを見てハンバーガー食べて過ごしたの」。
そして、次の週も全く同じ様な報告を受けた。課長は、良くやってくれている彼女だし、給料日はもう少し先なので、考えた末20ドル札1枚をソッと彼女の机の抽斗に入れた。後でお札を見つけた彼女はびっくりして、課長に返しにきた。帰宅してから夫に言った所、夫はすぐ弁護士事務所を通じ、その課長に対しセクハラで訴えてきたのだった。
この訴訟に対して、米国人経営者達の意見は「現実に現金を渡している。裁判では必ず負ける」。日本人側は「2週連続でああいう話を聞いた。彼女の所はさぞ大変なんだろうと察して、そっと机の中に入れた。これのどこが悪いのか?」、米側「彼女はお金を貸して欲しいとは言ってない」、日本側「言われなくても察したんだ」、米側「それがいけない」。
要するに日本側の文化でもある「察する心で行動する事」は、アメリカではやっていけない事。相手の意思を確認してから行動する事が当たり前なのだ。
そう言えば、郡長の所で釣りをやった時も、私が意思表示をするまで、誰も何もしてくれなかった。幸い、裁判は相手の夫の工場が再開し、レイオフが解けたので、先方が取り下げて終わった。それ以来、私は新しく日本から来る部下や出張者に、察する心は日本では美徳だが、ここでは通用しない。それどころか誤解され、トラブルの元になるから気をつける様に言い続けた。
全日本剣道連盟会長
国際剣道連盟会長
張 富士夫
Fujio CHO