『剣窓』平成29年5月号の記事で、持田盛二範士の頌徳碑が先生の生誕の地である群馬県前橋市の下川渕公民館に移設されたということを知った。大変懐かしく思い、すぐ前橋まで行ってきた。素晴らしい頌徳碑の前に立ち、「先生、大変ご無沙汰いたしました。ご縁があって今、全日本剣道連盟の仕事をしております」と報告申し上げた。
私は昭和26年、高校1年生の時に剣道を始めた。先生や先輩方の話しの中で、戦前・戦中を通じて、剣道界のトップ指導者は、持田先生と斎村五郎先生であり、中でも持田先生は御前試合の勝者であり、当時から昭和の大名人と言われ、伝説のような扱いだった。
昭和28年にGHQ(連合軍総司令部)から学校剣道の解禁が告げられ、剣道が盛んになった。この年、戦後第1回目の個人選手権大会が行われ、愛知県の榊原 正七段が優勝された。私は、高校の同級生で剣道仲間の山田希一と共に蔵前の国技館に見に行った。この時、持田先生が模範試合をされた。相手は若手の七段位の人だったが、どうしても打ち込めず隅へ追い込まれ、三度目に出ようとしたところを、ポンと小手を押さえられ、館中がどよめいたことを覚えている。
「やはり、名人はすごいなァ」と、山田と興奮して話し合った。
大学に入ってからは剣道づけの毎日だった。多くの先生や先輩方の胸をお借りして自分を鍛える日々だった。夏休みで大学の道場が閉鎖されると警察の道場に通っていたが、そのうち上級生から教えられ、茗荷谷にある妙義道場を知って、この早朝稽古に参加した。
稽古されている方々は我々の師匠クラスばかりで、そこに数人の学生が勝手に参加していたが、誰からも何も言われず、厳しいが自主的で自由な雰囲気の道場だった。
その道場に持田先生がいらっしゃった。毎朝、正面に稽古着をつけてきちんと正座されて、皆の稽古を見ておられる。そして、週に2回程、ご自分も立たれた。先生の前に防具が運ばれるのを見ると、稽古中の方々は自分の稽古を止め、中央に並ばれる。
わたしも厚かましく列に入り、持田先生に稽古をつけてもらった。多勢の方が待っておられるので、一人当たりの稽古時間は短い。なんとか持田先生に打ち込もうとするが、先生の剣尖が私の喉元から外れない。本当に困った。
4年生の冬休み最後の日、わたしはまた持田先生の列に並んだ。これが先生に教えていただく最後になるだろうと思った。4月には就職先の愛知県に行かねばならない。先生に向き合って直ぐに、これ最後だからという気もあり、この剣尖を外そうとしても私の力では絶対に無理だったら、自分の喉を突いてもらおう。怪我をしても良い、喉を突いてもらって自分は先生の面を打とう── そんな気持ちになった。もう外れない剣尖は気にしない。その通りに先生の面に飛び込んだ。「おっ、いいとこ」先生の声。私の竹刀は先生の面の直前で払われた。面金にカチンとかすった音がした。覚悟していた喉は無事だった。
わたしなりに「合打ちの精神」を理解した瞬間だった。60年近く前の一瞬だったが、今でもよく覚えている。
全日本剣道連盟会長
国際剣道連盟会長
張 富士夫
Fujio CHO