図 書
剣道と「き」
第2回 武芸気論の先駆者、熊澤蕃山
全剣連 広報・資料小委員会 委員
埼玉大学 名誉教授
大保木 輝雄
1.『天狗芸術論』の原形
近世の武芸の啓蒙書として最も有名なものに、佚齋樗山(1659~1741)の『天狗芸術論』があります。享保14年(1729)の初版で、寛政6年(1794)に『武用藝術論』として改名・改訂出版されるまで、元版が刷り切れるほど版を重ね、流布されたものでした。これには原形となった書物があり、それが熊澤蕃山(1619~91)の作といわれる『藝術大意』です。
樗山は古河に近い関宿藩久世家の家臣であり、蕃山が57歳の折に久世広之の下屋敷に7日間の滞在をした時には18歳の青年。のちに蕃山が晩年の4年間を古河に隠栖した頃は29~33歳でしたから、二人の年齢と地理的な条件を考えれば、樗山が蕃山の感化を受けたと考えるのが自然なことでしょう。
2.蕃山とその時代
熊澤蕃山の生きた時代は、兵法・武術が武芸となる過渡期で、武術の価値転換が計られた時期でした。蕃山は若年の頃、武人としての心身鍛錬、武技の練磨にひたすら精進し、島原の乱(寛永15年、蕃山20歳)を契機に学問に志を立てました。彼の武人としての自覚は儒教を学ぶ中で士道論として深化され、儒道即士道の主張に帰着したと言われています。当時の日本の儒者達による経書の理解は、個性的体験により解釈され、慣用の概念などにも新たな意味を含ませ、日本独自の概念規定がなされたといいます。したがって蕃山も、友枝龍太郎『熊澤蕃山と中国思想』にあるように、「理気渾融一体の道の体認自得を説くところが多く、彼独自の心法論が展開」され、その後の「気」を根源とする考え方の先駆けともなる特有の思想を持ち多くの剣術家に影響を与えたのです。
蕃山の一世代前の宮本武蔵や柳生宗矩は、武術の修行を通じて体認した原理を、存在論や生命論に重点を置く本体と作用との関係論として論じ、その中核に「機・気」の問題を定立させていました。それに対し蕃山は、青年期の体験をふまえ、人間の理想像を中国古典に登場する諸賢人に求め、士大夫の必修科目であった六芸(礼・楽・射・御・書・数)を武士の表芸である武芸に対応させ、その意味を問い、理気一体論をもって『藝術大意』を著したと考えられます。すなわち、武術家の「気」と儒者の「理」の一体化を「道」の概念を定立させることによって可能ならしめ、武芸心法論を提唱したのです。
3.『藝術大意』について
『藝術大意』に見られる重要な語句の使用頻度を調べてみると、本書のテーマが「心」の問題であることがよく分かります。冒頭には内容が要領よくまとめられ、「人は動物なり。善に動かざる時は必ず不善に動く。此の念此に生ぜざれば彼の念彼に生ず。種々転変して止ざるは庸人の心なり。本来無物の心体を悟って直に自性の天則に率ふ事は、心術に深くして学の熟せるに非ざれば能はざる處なり。故に聖人、初學の士に於て専ら六藝を教へて先づ其の器を成し、これより推して大道の心法の達しせしめん事を欲し玉ふ、―中略―一藝小なりとして軽んずる事なかれ。また、藝を以て道とするの誤ある事なかれ。」とあります。
4.心身論としての『藝術大意』
この書の論点は、芸の本来的意義を中国古典に求め、当節の剣術家の誤りを正すこと。「道・理・心・気・体」などの関係を形而上学的に認識することで満足することの非をさとすこと。心術を證するための剣術でなければならないことなどにあります。
蕃山が自己と大自然を貫通する「気」の自覚を可能にするための方法論として武芸を位置付けたことは、武芸史上、たいへん重要なことです。蕃山の説く「道」は、自己の身体を媒介としてのみ自覚できる世界であり、『藝術大意』は心身論として読み込まれなければならない質を有しています。
『藝術大意』は、その内容からみても蕃山の手になるものという確信は持てるものの、自筆本がどこに所蔵されているのか、まだ分かっていません。が、蕃山が切り開いた哲学としての「道」の思想なくして、後に樗山が著す『天狗芸術論』はありえませんでした。
次回は、佚齋樗山と『天狗芸術論』などの著作について考察したいと思います。
(つづく)
*この『剣道と「き」』は、2004年9月〜2005年9月まで12回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。