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幕末在村剣術と現代剣道
第5回 馬庭念流十四世・樋口定暠の巻
全剣連 広報・資料小委員会 委員
工学院大学 教授
数馬 広二
今回は、馬庭念流十四世の樋口定暠が、撃剣(竹刀打ち剣道)諸流派のひろがりゆく中で、古流稽古(形稽古)を続けたことについて述べたいと思います。
馬庭念流は、上野国馬庭村(群馬県多野郡吉井町)の地で継承された「念流」のことです。念流は日本における剣術の源流(天真正伝神道流・影流・中條流など)の一つで、1408年(応永15)、念阿弥慈恩によって創始されました。その「念流」を、1591年、樋口又七郎定次が馬庭の地で再興した総合武術です。
樋口家はまた、江戸初期より馬庭村の名主を務め、時代を追うごとに土地を集積してゆく有力農民でした。
樋口定暠は、1703年(元禄16)、赤穂浪士堀部安兵衛の師にあたる樋口将定の長男として馬庭村に生まれ、名を藤七といいました。藤七が自宅道場で稽古を始めた頃、すでに農民の間で馬庭念流の稽古がなされていました。
樋口家文書によれば、父・樋口将定宛ての起請文一巻に、「今日より念流兵法門弟たるの上は聊かも疎遠すまじき(稽古を怠らない)事」などの誓約が記され、違約した場合には「天罰を蒙る」ことが墨書されます。その起請文を認めた人々は、馬庭村からほど近い片山村(吉井町片山)の農民34名でした。そして次のような在所、苗字名前と血判が連著されています。
「片山村 横尾丑之丞(血判)
同 市十郎(血判)
同 久 助(血判)
ほか三一名」
(樋口家文書)
この起請文は、関東地方で刀狩りが行われず、「中世以来一貫して百姓は脇差し(刀身1尺以上2尺以下)をその身に帯び続け、近世の百姓を丸腰の農民と見ることが出来ない」(藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』)とし、「(農民が)苗字帯刀を禁止されていたというドグマ的通念に問題がある」(高橋敏『国定忠次の時代』)といった説の証左ともなります。
また、中世武士の系譜を持つ農民(とくに名主層)が、かつての武士としての矜持(誇り)を持って馬庭念流という武術を修錬したとも考えられます。
撃剣諸流派が未だ体を成さなかった時期の1742年。39歳となった藤七は、父将定隠居により、「名主であり馬庭念流宗家」を家督相続し、名を定暠としました。
その定暠のもとへ、上野国内(碓氷郡、緑埜郡、甘楽郡、多胡郡、群馬郡など全域)にはじまり、信濃国(現長野県)、下野国(現栃木県)、武蔵国北西部(現埼玉県)そして江戸市中から門人が集まり、その数、5千人といわれました。
門人は、村の名主家やその親類が多く、地元の分限者(裕福な農民)、新田岩松氏、七日市藩主、榛名神社(群馬県榛名町)の御師もいます。また男子に限らず女子の入門もありました。とくに名主は、村内の治安維持のため警察力となる実戦的な武術を身につける必要がありました。
稽古は、太刀のほか長刀、十文字鑓などの長大な武器を使いこなすため、体術を重視した、力強い形稽古で、戦国期実戦武術の身体技法を伝えるものでした。『馬庭念流物語』には、定暠が、馬庭村出身で、のち江戸相撲の小結・佐渡ケ嶽となった初五郎に、体捌きや気合いの基本を指導したと記しております。
また馬庭念流の発展は、江戸で定暠自身の活躍を見逃せません。定暠は37歳の時から、旗本から招かれ、江戸屋敷内で武芸指導や上覧を重ねました。老年の92歳にあっても、その円熟した技を松平定信に披露しているのです。
さて、18世紀後半、撃剣諸流派が農村部を中心に教線拡大をはかる中で、馬庭念流が教線を維持できた理由は、定暠が馬庭念流としては初めて、「免許制」を確立したことです。
定暠に入門し免許を得た高弟に、平塚村(現群馬県伊勢崎市境平塚)の田部井源兵衛、国定忠次の師といわれる赤堀村(現群馬県伊勢崎市市場町)の本間仙五郎、武蔵国幡羅郡柿沼村(現埼玉県熊谷市柿沼)の四分一兵右衛門、比企郡上古寺村(現埼玉県小川町上古寺)小久保勘右衛門らがおります。彼らは、本来の形稽古に、撃剣稽古を導入し、また、幕末、明治の撃剣家として大いに名を成してゆきました。
定暠の孫弟子にあたる中村定右衛門(埼玉県熊谷市)に至っては、山岡鉄舟との撃剣勝負で見事に勝ちを得、絶賛されるほどでした。
定暠は、日本剣術の源流の一宗家として、中世以来の身体技法を、形稽古の中に鍛錬するよう門弟に伝えたのです。そして、門弟たちは、時流に合わせ撃剣を導入しつつも、形稽古で培われた身体技法を開花させたのでした。
(つづく)
*この幕末在村剣術と現代剣道は、2006年4月〜2006年9月まで6回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。