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人間教育としての剣の道を辿る
第2回 形稽古と竹刀打稽古 その1
国際武道大学 教授
田中 守
「武道のスポーツ化」という問題は、何も昨日今日突然に湧き起こってきたことではない。剣道においては、「スポーツ化」とはいわなくとも、随分以前から「当てっこ剣道」「チャンバラ剣道」等、その内容を揶揄する表現があった。
例えば、明治期の撃剣興行や戦後のしない競技は、いずれも剣道受難の時代にその命脈を保つという剣道史上の大きな役割を果たした存在である。だがその一方で、撃剣興行は客受けを狙った派手な演出(曲技・見得を切るがごときひき上げ・異様な掛け声等々)が「撃剣芝居」と酷評されたという。また、戦後のしない競技についても、様々に評価されるところであろう。それらが現代剣道の好ましからざる部分の元凶の一つとなったという見方がなされるのも事実である。
いつの時代においても、その時々の剣道に対する批判があるのは世の常といえそうだが、それもこれも剣道の歴史であり実態である。様々な批判・批評も剣の道を追及し、より良きものを求めるが故である。
さて、剣道の「スポーツ化」を遡れば、「華法化」や「遊芸化」の表現に行き着くであろう。
生死の問題を直視しつつ、技と心を磨くことに励んだ時代とは打って変わり、「天下泰平」の江戸中期の修行は、臨場感や緊迫感に欠け、実戦からは程遠いものとなっていた様である。心法論の深化や形稽古の工夫等は、平和社会にあって、剣術修行に実戦的要素をいかに肉付けするかという思案の結果であったといえよう。
だが、現実は荻生徂徠が『鈐録』で以下の様に評するあたりが、その実態であるようだ。
今時ノ鑓モ剣術モ、皆治世ノ人ノ工夫多ケレバ、大形ハ一人ヲ相手ニシテ、尋常ニ立向ヒ、アタリニ見物ヲ大勢置テ、見事ニ勝事ヲ第一ニス。殊ニ、世次第ニ向上ニナリテ、武士モ暖ニナレバ、道理ノ高妙ヲ談ジ、或ハ立廻リ、所作ノ見事ナルヲ専トシ、――中 略――或拭板敷ニ胡桃ノ油ヲ引キ、足皮ヲハキコロバヌ所作、或ハ長袴ニテ使フト云様ナルルイ、皆高妙ノ至極ヲ極メタレドモ、戦場ノ用ニハ無益ノ事ナリ。総ジテ武藝ハ、手足ヲ習ハシテ走廻ノ達者ニナルベキ為ナルニ、ワザヲ卑シキ事ニ云テ、理ヲ談ズルルイハ、皆太平ノ戯玩ニ似タリ。
この様な状況を打開する新機軸として登場したのが竹刀と防具を用いた竹刀打稽古である。その工夫は、正徳年間(1710年代)直心影流の長沼四郎左衛門や宝暦年間(1750年代)一刀流の中西忠蔵等の手によりほぼ現代剣道の道具や稽古の原型が完成された。
竹刀打稽古については、当初から流儀により、また師範によって賛否の分かれるものであったのだろう。例えば井沢長秀の著した『武士訓』には、
世に剣術を教ふるもの、小さき竹刀こしらへ、敵と間をへだてて間合をうつと云ひせせりをなすと云ふことあり。真剣にてさやうなこまかなることなるものにあらず。たとえ仕合よくて一二寸切りたればとてもののかずとせんや。いはんや甲冑を着、着込をかさねたるものは、かかるつたなき術をならふべからず。
として、竹刀打稽古を実戦の役に立たぬものとして切り捨てている。また、徂徠も先の『鈐録』の中で、竹刀打稽古の軟弱さに言及している。だが一方では、形稽古に比べて自由にしかも思い切り相手を打ち切ることのできる竹刀打稽古こそより実戦性の高いものだとする説も少なくなかった。
「実戦性」を計る尺度をどこに置くかという問題ではあるが、旧来の剣術にとって、竹刀打稽古(撃剣)の登場そのものが「スポーツ化」であったということであろう。
竹刀打稽古考案の本来的意味は、「しない打稽古の事は畢竟組太刀の助けとせん為めなり」(一刀流『山鹿高厚むかし噺』)であった。
では、形に流派継承という意味を持たぬ現代剣道にあって、形と竹刀打稽古の関係は如何にあるのだろうか。日本剣道形は竹刀打稽古の「助け」として機能しているのだろうか。
次回は、現代剣道における形(日本剣道形)の位置づけについて考えてみたい。
(つづく)
*この人間教育としての剣の道を辿るは、2006年10月〜2007年9月まで12回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。