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人間教育としての剣の道を辿る
第4回 名を惜しみ、恥を知る その1
国際武道大学 教授
田中 守
学生大会の審判を務める機会が多くある。
学生達の溌剌とした試合振りは、清々しく感じられ、元気一杯の姿に活力を与えられる思いがする。だが一方で、その試合内容、特に大きく構えを崩した防御姿勢や鍔ぜり合いでの時間空費などの場面を目の当たりにし、暗澹たる思いを抱く事も少なくない。
現行ルールでは、この様な内容については反則の適用により是正を図っている。その考え方は、柔道における「指導」「注意」「警告」「反則負け」という運用と共通するものといえよう。
たしかに、反則・罰則の適用という他律的規制の存在によって「競技」は成立する。だが、「人間形成の道」を標榜する剣道において、果たしてルールに縛られて競技することが良いのであろうか。今回は、剣道のルールの考え方の根本について検討してみよう。
現代剣道において、我々はルールによって成立する競技に慣れ親しんでいるが、そもそも闘争の術としての剣術の勝負は、技術的に何ら規制・制約を受けるものではなかった。生死を賭しての戦いの場では、あらゆる手段(武器・技術・戦術)が許されており、いわば「ルール無用」がその本質である。
それでは、実用を旨とする剣術において、ルールにあたる物は一切存在しなかったのだろうか。もちろんルールブックに示されるような「明示的ルール」はない。しかし、武士の行動規範として「名を惜しみ、恥を知る」という基本的な暗黙の了解(黙示的ルール)は厳然として存在していたはずである。
命を賭けた武士の戦いに罰則規定などあろうはずもないが、武士に求められたのはただ「強い」だけでなく「美しさ」も併せて持つことであった。よって、自らの矜持を守るために「名を惜しみ、恥を知る」ことこそ最重要の闘争倫理と捉え、これを犯す者には、死以上の不名誉と武士としての存在そのものが否定されるという厳しい結末が待つのである。
故に彼らの正々堂々の戦いは、ルールという他律的な規制ではなく、自らの名誉と誇りを賭けるという自律的規制によってのみ成立するのである。
〝ヤーヤーヤー遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそは――〟
と名乗りを挙げることから戦いを始めるのは、ある意味では互いの「黙示的ルール」を再確認しあう手続きであるともいえよう。
武士たらんものは正月元日の朝雑煮の餅を祝ふとて箸をとり取初るより其年の大晦日の夕に至る迄日々夜々死を常に心にあつるを以て本意の第一とは仕るにて候。
『武道初心集』
夫剣術は専人に勝事を務むるにあらず。大変に臨みて生死を明らかにする術也。
『猫之妙術』
などは「死の覚悟」の大切さを説くものである。これについては『葉隱』の「武士道といふは死ぬ事と見附けたり」の一節が特に有名である。いずれも吏道的な要素が多分に織り込まれているとはいえ、武士道思想の根底にあるのはやはり死を恐れず、生を貪らず、正々堂々全力的に戦うという「勝負の構え」を備えた武士の姿であろう。
この様に、剣術(武術)のルールの本来的成り立ちは、武士としての名誉と誇りに賭けて、自己の行動を自律規制することである。現行剣道試合・審判規則の第一条「剣の理法を全うしつつ、公明正大に試合し、審判する」という基本精神もこれに相通ずるものであろう。
その意味では、現代剣道の試合においても「名を惜しみ、恥を知る」ことがルールの全てであると考えて良いはずである。もちろん、競技としての安全・公平・秩序等々を維持するためには細部にわたるルールの制定が必要不可欠ではある。だが、試合者はあらゆるルールのどれにも他律的に縛られる事なく、自律的に自己の行動を規制するという考え方が重要であり、そこにこそ「人間形成の道」が成立するのではないだろうか。
剣道の試合においては、自らの所属・氏名を大書した名札(ゼッケン)を着けて戦う。これを鎌倉武士が大音声で挙げた「名乗り」に代わるものだ、と心得ることが大事なのだと思う。そうすれば、意図的反則行為が起こることなどあろうはずはないし、また事細かな反則規定なども不要となるのではないだろうか。
(つづく)
*この人間教育としての剣の道を辿るは、2006年10月〜2007年9月まで12回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。