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人間教育としての剣の道を辿る
第9回 戦わずして勝つ その2
国際武道大学 教授
田中 守
天下泰平―それは武士に対して「何のための武術か」という新しい命題が突きつけられたことに他ならない。そこで先達の導き出した結論は、武の技と心を平和社会の構築と維持に資する人間教育に役立てることであった。言い換えれば、それまでの必勝不敗の戦技武術から、不戦不争の平和武道への転換を模索し、実行したということである。「百戦百勝」を目指してきた武士の生き方に終止符を打ち、「戦わずして勝つ」にはどうすればよいのか、その方法を見出す方向への転換である。
例えば、『猫之妙術』にある
我あるが故に敵あり。我なければ敵なし。敵といふは、もと対待の名也。陰陽水火のごとし。凡そ形象あるものは、かならず対するものなり。我心に象なければ、対するものなし。対するものなき時は、角ふものなし。是を敵もなく、我もなしと云。
の「敵も我もなし」というところに武の真髄を見出そうとしたのである。
この「敵も我もなし」や、「活人剣」「相抜け」さらに「無刀」などの思想は、厳しい勝負の現実からかけ離れた空理空論だ、とする見方がなされるかも知れないが、二百六十年もの長きにわたって平和が続いた江戸期に、こうした思想が生まれたことに着目する必要がある。これが幕末動乱を経て明治期に入り、現代武道の指針となっている嘉納治五郎の「精力善用」「自他共栄」の訓え、あるいは昭和期になっての「剣道の理念」につながっていくのである。
江戸初期以降に生まれたこれらの思想は、武術から武道への橋渡しとなる新しい武芸思想だといってよいだろう。現在、我々が標榜する「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」とする理念の根底には、間違いなくこのような「戦わずして勝つ」や「勝負を争わず」「敵も我もなし」、そして「活人剣」や「相抜け」「無刀」などの思想が流れていると見てよいだろう。
さて、平和社会にあっての武道の存在意義を最も端的に示すのが「武=戈を止む」という解釈ではないだろうか。「武」の字義を紐解けば、「戈」はマサカリ型の武器、「止」は足であって、その会意文字である「武」は、「武器を持って、足で進む=障害をものともせず困難を切り開き、荒々しく突き進むこと」である。
そうすると「武」の字義は、「戦技武術」のあり方そのものに合致するものだといえるだろう。だが、我々にとってより重要なのは、その字義とは別に、永年日本の社会にあって「戈を止むの道」として武道を捉えてきたという事実である。即ち、闘争の技術として生まれた「武の術」を「武の道」へと発展昇華させたことである。
術から道への昇華といっても、勿論術そのものを否定するものではない。「武の道」とは、敵をものともしない荒々しいエネルギーと、内省的な自己抑止力、その両者の融合を示すものであり、そこにはじめて「文武不岐」「文武両道」という理想的な武道の、そして武道人のあり方が成立するのではないだろうか。
中江藤樹は『文武問答』において、次のように「文武」を説いている。
天下国家をよく治めて、五倫の道を正しうするを文と云。天命を恐れず、さも悪ぎやく無道のものありて、文道をさまたぐる時は、或は刑罰にて懲し、あるひは軍をおこし征伐し、天下一統の治をなすを武と云。しかる故に戈を止という二字をあわせて武の字をつくりたり。―
藤樹の「社会の平和と幸福のための文武」という理解は、現代にあっても不変の真理であろう。また、「活人剣」や「相抜け」「無刀」「戦わずして勝つ」「戈を止む」はいずれも社会の平和、人類の幸福を切り開く現代に生きる「道」の訓えだといえよう。「剣の道」をただ荒々しいエネルギーの発現による「優勝劣敗」の世界ではなく、「人の道」として大切にするためにも、我々は現代の視点で「戦わずして勝つ剣道」や「勝負を争わない剣道」を考えてみる必要があるのではないだろうか。
(つづく)
*この人間教育としての剣の道を辿るは、2006年10月〜2007年9月まで12回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。