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人間教育としての剣の道を辿る
第10回 文武両道
国際武道大学 教授
田中 守
最近、「文武両道」という言葉をあまり耳にしなくなったような気がする。「文と武は車の両輪、鳥の両翼の如し」といわれるように、文武兼備が永く日本の教育の目指すところであった。そして、現代的な「文武両道」は学業とスポーツの両立だと理解され、学業優秀なスポーツマンこそ理想の若者像とされてきたはずである。
だが、戦後の日本社会は学歴偏重の傾向を強くし、受験戦争と呼ばれる歪んだ状況を創り上げてしまった。その一方で、アマチュアリズムの崩壊と商業主義の蔓延、果てはドーピング問題などスポーツの世界における勝利至上主義がもたらす様々な弊害も浮き彫りになってきている。その結果、有名大学への入学だけを目標に青春時代を過ごす者、学業はさて置き、スポーツにのみ精力を傾ける者と大きく分かれる傾向が表れている。
それぞれの世界で頂点を目指し努力することは尊いことである。また、一芸に秀でることは高く評価されるべきことである。しかし、「人間教育」という視点からすれば、このような現状がバランス感覚を欠いたものだといわざるを得ないのではないだろうか。
受験戦争を勝ち抜くことも、金メダリストになることも立派な「自己実現」ではあろう。しかし、それが人生の終着点ではない。それぞれの目標に向かって積み重ねた努力と、そこで得られたものをこれからの人生にどう活かすか、また、社会にどう還元するかが大事であろう。そう考えると、21世紀の今、改めて「文武両道」を考える必要を痛感するところである。
さて、中江藤樹の『文武問答』は前回も引用したが、藤樹は文・武の「徳」と「芸」について、以下のように言及している。
扨また、文武に徳と芸の本末あり。仁は文の徳にして文芸の根本なり。文楽禮楽書数は芸にして文徳の枝葉なり。義は武の徳にして武芸の根本なり。軍法射御兵法などは芸にして武徳の枝葉なり。根本の徳を第一につとめ学び、枝葉の芸を第二にならひ、本末かね備はり文武合一なるを、真實の文武といひ真實の儒者といふなり。文芸ありて文徳なきは文道の用にたゝず、武芸ありて武徳なきは武道の役にたゝず。
儒教思想の「仁」や「義」が、現代社会にそのまま持ち込めるものだ、とはいえないのかもしれない。また、「武徳の涵養」が、現代剣道の目標たり得るのかどうかは検証を必要とするだろう。ただ、少なくとも「人間形成」を標榜する剣道では、指導者の責任において何を大切にすべきなのかと、いうことをしっかり伝えていかなければならないのだと思う。藤樹が、
本をすてて末ばかりを求め学ぶがひがごとなりといふ事にて候。根本の仁義をたてゝのうへに、文芸・武芸に長じぬるは、本末かねそなはる多能の君子にて、世俗の諺にもいへる花も實もある人なり。本たつての上には文芸武芸ことの外重宝なり。本末先後のこゝろ簡要にて候。
と指摘する通り、徳(人間性)が第一(本)で、芸(技・勝負)は第二(末)ということである。
「文武両道」は、何も生徒や学生に限ってのことではない。まずもって、指導者自身が文徳・武徳を兼ね備えた存在でなければ、本当の教育・指導はできないはずである。
だが、勝者をヒーロー・ヒロインとして持てはやすマスコミや、今、社会問題となっている高校や大学のスポーツ特待生制度などの様々な現実の中で、多くの指導者が競技力の向上、チャンピオン育成という目先の芸の部分にしか目を向けていない様に思えるのは寂しい限りである。
多くの若者にとって生涯の「生きる力」となる剣道を指導するためにも、指導者自らが「文武両道」「師弟同行」の意味を再確認することが必要なのであろう。
他のスポーツが世界を相手のメダル競争に狂奔しようとも、剣道の世界だけは「人間教育」の姿勢を貫き、文武兼備の「花も実もある現代の武士」を育てていかなければならないのではないだろうか。
(つづく)
*この人間教育としての剣の道を辿るは、2006年10月〜2007年9月まで12回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。