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人間教育としての剣の道を辿る
第11回 師弟同行 その1
国際武道大学 教授
田中 守
剣道の指導者が「監督」や「コーチ」と呼ばれることに、多少なりとも抵抗感を抱くのは筆者だけであろうか。
もちろん競技の場においては、それぞれが重要な役割を担う存在であり、その意味では異を唱える余地はない。だが、剣道の指導が、監督・コーチとプレーヤーという関係の上に成り立つだけになってしまって良いものとは思えない。日本の伝統文化としての剣道の将来を考える時、あらためて師弟関係のあり方を見詰め直す必要を強く感じる。
古来、「正師」という表現で、師たるもののあるべき姿が説かれてきた。『免兵法之記』には、「師之心得之事」として、
諸藝術を学び一流の師たる者可心得事。
第一、先師より傳来の意味聊不違様に教事本位候。流は只一ツにして、師は萬人に渡る故、賢愚の沙汰も可有之候得共、流儀の躰は幾世をふる共たがふ事なきものなり。若流の躰違事有ば、其師の作意に候間、習之事理少も不違様に可致教導事肝要候。
と記される。「流儀の躰」やそれを恣意的に歪めてしまう「作意」は、流派継承という大前提の下に述べられたことだが、それにしても、あえて「賢愚の沙汰」の表現を憚らぬほど師のあり様も色々だというのが実際のところであろう。
この点を日本曹洞宗の開祖道元は、『学道用心集』において、
行道は導師の正と邪とによるべきか。機は良材の如く、師は工匠に似たり。縦え良材たりと雖も、良工を得ずんば奇麗未だ彰れず。縦え曲木たりと雖も、若し好手に遇わば妙功忽ち現ず。師の正邪に随って悟りの偽真あり。
と説いている。仏道修行の成否は、導く師が正しいか邪であるかにかかってくるというのである。仏道のみならず、あらゆる道の修行がそうであるが、優れた師の下に立派な弟子が育つのである。弟子の素質は例えれば材木の質であり、建造物の出来ばえは大工の腕次第だというのである。いくら素質溢れる弟子がいようとも、師がそれを引き出すだけの力量を持たねば修行の成就は望めないし、逆にそれ程の逸材でなくとも、師の導きよう一つで限りない成長も期待できるのであろう。
だから、道元は最終的に「正師を得ざれば、学ばざるに如かず」と断言するのである。道の修行とは、ある意味ではこの正師を得ることに始まり、且つそれがすべてであるのかも知れない。真の正師に指導を受けるかどうかによって、修行者が本当の悟りを開くことができるか、その悟りが偽りになってしまうかが分かれるのである。それ故、真の正師に巡り会うことができないのなら、何も学ばないほうがましだというのである。(下手に学ぶことは道を誤ることであり、本質を歪めることになりかねない)
さて、剣の道における正師とはいかなる存在を指すものか。これは、筆者ごときが云々すべきことではない。ただいえるのは、名監督や名コーチ=正師ではないということである。さらにいえば、少なくとも剣道を「優勝請負人」=正師と考えるような世界にしてはならないということである。
日本のスポーツ界でも、近年「いかにして勝たせるか」の方法論として「コーチング理論」の研究が盛んに行われている。また剣道においても、これに則った新しい指導法が様々に工夫されているようだ。それ自体は、ややもすると個人の経験則のみに頼ってなされがちな指導に、合理性や科学性に基づく理論的裏づけを付与するものとして意義のあることだろう。
だが、先達が最終的に我々に遺したのは、この様な方法論としての勝たせるための「術」ではなく、自らを鍛え錬りつつ、人を育てるという「道」であったことを忘れてはならないと思う。
たしかに、多くの指導者に「優勝請負人」たることを求める現実があるのも否定できないところだ。だが、他のスポーツはともかく、剣の道だけは、求道者=正師を貫く存在でありたいものだ。
『禮記』に曰く、
師厳にして 然る後に 道尊し
(つづく)
*この人間教育としての剣の道を辿るは、2006年10月〜2007年9月まで12回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。