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剣術歴史読み物
第1回 荻生徂徠の剣術評論
南山大学 名誉教授
榎本 鐘司
流派が全盛を極めた江戸時代に、剣術流派はどのくらいあったのであろうか。今村嘉雄氏の説では620流に達するというが、正確にはつかめていない。江戸時代の社会では、制度的には身分を統制して武士以外の剣術を禁じたが、実態としては農・工・商のいずれの身分においても剣術は行われた。これらの身分に伝承した剣術流派も考慮に入れると、その数は途方もないことになる。
ただし、江戸時代には禅や儒学の哲理によってあらゆる技芸が理論づけられることになったのであるから、流派の大体が、これは禅や儒学の影響を受けた流派、あるいはこれは中世的な形態をそのまま残した流派、というように大凡の分類が可能となるのである。
流派の分類について言及したのは、管見するところ、荻生徂徠(1666-1728)が最初ではないかと思われる。
徂徠の最晩年、享保12年(1727)に、兵学や武術に関する古法について述べた大著『鈐録』が成稿する。その「巻十一 比較」には次のようにある。
剣術ニ、戸田流・神道流ナドハ、戦国ニハヤリタル流ナレバ、何レモ所作多ク、手足ノ習ハシニ宜シカルベシ。柳生流・一刀流ナドノ、敵ノ拳ヲ目当トスルモ尤ナリ。サレドモ両流共ニ、今ハ殊ノ外ニ立廻リノ見事ナルヲ尚ブハ、治世ノ風俗ナルベシ。其外、敵ノ頭ヲ目当ニシテ打ツヲ第一トスルハ、治世ノ結構ナリ。尤、冑ヲ打ワル事モアルベケレドモ、冑ニハ殊ニキタヒニ念ヲモ入ルレバ、戦場ニハ遠キ流ナリト知ルベシ。殊ニ跡ヘ引事ヲ第一ニスル流ナドハ敗北ノ媒ナルベシ。
出典:渡辺一郎編『武道の名著』
近世の剣術流派の系統は大きく3つに分けられる。1には陰流・新陰流の系統であり、2には一刀流の系統、3には鹿島・香取の新当流・神道流の系統である。
徂徠は、戸田流や、鹿島・香取の系統である神道流について、中世的な形態を残していて、色々な技法や様式が未分化なままで残されていると評している。これに対して、新陰流や一刀流については、甲冑を着込んだ敵の「拳」を打つという実戦的な技法を残してはいるが、少々見栄えを重視するようになってきており、これは泰平の世の風俗であると評した。そして、注目すべきは、「敵ノ頭ヲ目当ニシテ打ツヲ第一」とする流派や、「跡ヘ引事ヲ第一ニスル」流派の出現に言及したことである。
打突部位に防具を着装して、面部や小手部を撓(しない)で打ち合うという革新的な剣術が、江戸に出現したのはいつか。これは色々な流派の内部資料を検討していくことによって、享保年間に活躍した長沼国郷の直心影流が最初であろうと考えられている。そうすると、ここに書かれている流派は直心影流という事にもなる。
さて、別の箇所では次のようにある。
或ハ立廻リ、所作ノ見事ナルヲ専トシ、竹刀ノアタリ、シナイノアタリモ痛マヌヤウニスルヲ面トシ、或拭板敷ニ胡桃ノ油ヲ引キ、足皮ヲハキテコロバヌ所作、或ハ長袴ニテ使フト云様ナルルイ、皆高妙ノ至極ヲ極メタレドモ、戦場ノ用ニハ無益ノ事ナリ。
出典:渡辺一郎編『武道の名著』
徂徠は、立ち回りの派手さを求める流派、軟弱な竹刀と防具を使用する流派、板敷きの上で長袴と足袋をはいて稽古する流派、すべて実戦の役には立たないと辛辣に批評した。この批判は、ただ直心影流のような新興流派にのみ浴びせられたものではない。新陰流や一刀流系統の「殊ノ外ニ立廻リノ見事ナルヲ尚ブ」傾向にある流派もこの標的であった。
ともあれ、享保年間に、甲冑をつけない素肌の武者を想定した泰平時代の剣術のバリエーションがかなり多く行われるようになっていたことがここに明記されたこと自体が、武道史上、大変に重要なことである。
徂徠は、宋儒の学問の浸透によって身心修養のみに関心をむける泰平の風潮に抗して、この『鈐録』を著した。しかし皮肉にもこの著作は、元和偃武から約100年たって泰平の時代がいよいよ熟成し、剣術に備わる「武」の意味が様々に解釈されて様々に表出する時代(流派剣術全盛の時代)が到来したことをも告げていたのである。
(つづく)
*この剣術歴史読み物は、2002年5月〜2003年7月まで3名の筆者によりリレー形式で15回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。