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剣術歴史読み物
第3回 一刀流中西派の革新
南山大学 名誉教授
榎本 鐘司
「撃剣」といっても、江戸時代にはいくつもの形態があった。中心的には、直心影流や神道無念流などで行われた、しないと防具を使用した打ち込み試合形態の剣術のことである。また、新陰流系統の流派に古くからあった、袋しないで拳や脇つぼを打つ形態も、自由乱打で試合方式の剣術であるから、これも撃剣である。あるいは、木刀や刃引などを使用して寸止めではあるが激しく自由に乱打する稽古形態も、これも撃剣であろう。
この撃剣の範疇に入らない、これと対極に位置した流派が、18世紀前半期までの一刀流であった。荻生徂徠には、「立チ廻リ」を見事にして「治世ノ風俗」と批評されもしたが、「組太刀」による稽古形態を厳格に伝えたのが一刀流であった。しかしこの一刀流も、「撃剣叢談」には「今、江戸三番町幕下の士、榊原男依と云ふ人、古流の一刀流を伝ふ。尤も上手也と云ふ。其の外、中西忠蔵、都筑彦三など云ふ者、江戸にて此の流の師也。」と紹介されており、18世紀後期の江戸では、組太刀を専らにする旧派の一刀流と、撃剣も稽古する新派の一刀流とがあった。
一刀流がしない打ち稽古を導入する経緯については、『一刀流兵法韜袍起源』(一刀流中西派の四代中西忠兵衛子正が文政5年に作成した文を、文久元年に高崎藩士津田明馨が出版した。)に詳しい。
「夫一刀流兵法ハ、(中略)無為無心ノ体ヨリ、敵ノ業ニ随イテ太刀ハ自然ニ働クナリ。当流兵法ニ、敵ニ勝ツコトヲ修行セズ、専ラ我ニ当ラヌ事ヲ慥カニ知レバ、敵ニ勝ツ事ハ自ラ其中ニ備ル也。」
出典:渡辺一郎編『武道の名著』
一刀流は、敵に勝つ事を修行しない。組太刀によって、太刀の働きや間合の法則性を体得し、心気の修錬を主眼とする。しかし、泰平の時代に、この形態によって多くの門人に真剣味のある稽古を持続させることに困難が生じた。
18世紀の中頃に、一刀流小野派から一刀流中西派が別れる。その初代が中西忠太子定であり、二代を中西忠蔵子武という。ともに有名ではあるが、その実像は不詳で、いつ生まれいつ亡くなったのか、如何なる出自なのか、どのようにして一刀流の門下生となったのか、江戸のどこに道場を興したのか等々、分からないことが多い。
「二代目中西忠蔵先生ニ至リ、又弟子少ナカラズ。弥(イヨイヨ)稽古出精ノモノ多シ。先生ソノ稽古ヲ見ラルゝニ、誠ニ流儀ノ意味モナク、形ノミ重ネツカヒ堅メテ、肝要勝負ニ遠ク、カヘツテ素人ニハオトル事ナレバ、夫ヨリハ、面小手ヲ掛テ、シナヘヲ持、面々ノ心次第打合セタル方、カヘツテ架、形チノホグレトナリ、未熟ノ兵法遣ヒノ相手位ハ成ベシト、発明セラレテ初テ見ラレタルナレドモ(中略)是ニテコソ剣術ナリト思ヰ込、我モ我モト面小手シナヘヲ用意シテ、是ヲ出精スルコト盛ンナリ。」
出典:渡辺一郎編『武道の名著』
中西忠太子定、忠蔵子武ともに傑出した人物であったようで、中西道場には門人が集まった。しかし、例えば直心影流や神道無念流などの撃剣流派の出現によって、一刀流の組太刀による稽古の弱点もしだいに顕わとなった。これを補完するために、他流にあったところを改良して採用されたのが「面小手ヲ掛ケテ、シナヘヲ持」という試合稽古法であった。
さて、武術道場の経営形態は、師範が幕府や諸藩に奉公して役料を得て営まれる師家稽古場と、まったくのプロ経営者によって営まれる町道場とに大別できる。それまで一刀流小野派は幕臣である小野家によって経営された。しかし中西家は町道場経営者である。四代中西忠兵衛子正の時には下谷練塀小路東側に大道場を構えた。そこには浅利又七郎義信や千葉周作成政など、後に独立する傑出した剣客が内弟子としてあった。浅利や千葉は足軽以下の出自の者である。中西道場は村落部にも勢力を伸張し、軽輩の身分の人材が集まった。門人の拡大再生産が繰り返され、一刀流は幕末に至るまで、直心影流や神道無念流と同様に勢力を維持したのである。
推測の域をでないが、中西忠太子定の出自は足軽程度の身分の者ではなかったか。とくに二代目忠蔵子武は、一刀流以外に撃剣を含む総合武術を習得していたのではないか。撃剣の実践経験なくして、その改良・採用は不可能であると思われてならない。
(つづく)
*この剣術歴史読み物は、2002年5月〜2003年7月まで3名の筆者によりリレー形式で15回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。
*なお、今回の再掲載にあたり、著者より、最新の研究論文では「袋しない」での試合稽古については「しない打」として、「撃剣」とは概念上での区分を行っていることを付記してほしい、との要望のあったことをここに注記します。