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剣術歴史読み物
第9回 剣術の教材化への試み――剣術の体操化
天理大学 名誉教授
湯浅 晃
明治以降、日本の近代化は先行する欧米を目標に、富国強兵・殖産興業をスローガンに掲げ急速に進展された。教育についても、日本人と西洋人の圧倒的な体格差を目の当たりにして、知識・技術の面だけではなく、身体の教育の面でも近代化(西洋化)が急がれた。この〈身体の近代化〉のために導入されたのが「体操」である。
明治初年、最初に導入された体操は、亜鈴・棍棒などの手具を用いた「普通体操」(軽体操)であったが、明治18年(1885)に初代文部大臣に就任した森 有礼は、徒手教練・隊列教練・操銃教練を含む「兵式体操」を導入し、「従順・友情・威儀」という気質の養成を目指した。
以降明治期においては、日本の学校体育は普通体操と兵式体操の二本立てで実施され、均整のとれた健康的で「機能的な身体」(自由に動ける身体)の獲得と、集団的規律・行動を遵守する「従順な身体」(集団に合わせられる身体)の形成が目指された。このような〈身体の近代化〉なくして欧米に匹敵する国民国家の形成は不可能であると理解された。
武術の学校正科への編入に際して、常にその比較の対照とされたのがこの「体操」であった。武術関係者の懸命の努力にもかかわらず、明治44年まで文部省が一貫して武術の正科編入を認めなかった大きな理由として、武術は体操と比べて、安全性や、指導方法上に問題ありと判断されたのである。とりわけ、合理的な集団的指導を可能にする教材化の工夫がなされていなかったことが指摘された。
西南戦争での功績で知られる隈元實道は『武道教範』(明治26年)を著し、「体育運動法の善良なるものを求むれば、いまだ剣搏(剣術と柔術のこと――筆者注)両道を措いて他にその完全無欠なるもの」はなく、「西洋の悠長なる運動法は我が日本帝国臣民の慓悍なる性質」には適さないとして「体操批判」を論じた。本書はあくまで軍人・隈元が軍人教育の一環として執筆したものであるが、指導方法の面からみれば、兵式号令による「一斉指導」を導入し、武術教育における「体操化」の先駆けとなった。隈元は、その後『體育演武必携』(明治29年)を著したが、これは軍人ではなく学校生徒を対象としたものであり、『武道教範』で示した武術の体操化をさらに徹底した内容になっている。
栃木県の小学校校長を務めた橋本新太郎は『新案 撃剣体操法』(明治29年)を著し、「全国皆兵主義ノ行ハルゝ限リハ、獨リ吾人ノ祖先ノミ武士タリシニハアラザルナリ。吾人モ武士ナリ」として、「従順・勤勉・忍耐・勇敢」といった武士的人格の涵養こそが学校教育の目標であるとし、剣術を学校教材として導入しようとした。橋本は隈元の影響を強く受けており、〈国民=兵士=武士〉という立場に立ち、武術を体操化してその普及を図ったが、これは「従順・友情・威儀」の涵養という「兵式体操」の理念に沿って武術の体操化を試みたものといえよう。
橋本と同じく小学校校長でありながら、小沢卯之助は橋本の撃剣体操は「体育の本旨に適せず」として批判し、別の観点から武術の体操化を試みた(『武道改良教授 武術体操論』―明治29年―など)。小沢は、普通体操が普及していながら、体位向上の上に全く効果が上がらないのは、体操の動きそのものに魅力がないからであると考え、日本人に馴染みの深い武術の動作を体操化し、「普通体操の活性化」を図った。この武術体操法の主眼は、あくまでも心身の全体的調和的発育・発達という普通体操の目的の外に出るものではなく、隈元や橋本が唱えた武士道的国民精神の作興は強調されていない。小沢の武術体操法は、あまりにも体操化しすぎ左右対称の動作に拘ったため、武術家からは武術的要素が希薄であるとの批判もされたが、武術の教材化に大きな影響を及ぼし、初心者指導法の確立にも寄与した。
以上紹介した二つの武術の体操化のあり方は、そもそもその方向性が正反対であった。隈元・橋本には、まず武術があり、それを体操化して武術の保存・継承をはかった。それに対して小沢の頭には、まず体操があった。それを武術化して体操の発展を考えたのである。
(つづく)
*この剣術歴史読み物は、2002年5月〜2003年7月まで3名の筆者によりリレー形式で15回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。