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剣術(道)歴史読み物
第12回 修養論の系譜2 牧野 秀『剣道修行之栞』
大阪大学 元教授
杉江 正敏
修養論の系譜をたどる2回目として、本来は、直弟子柳田元治郎(東北帝大剣道師範)の『剣道教範』(明治44年刊『史料明治武道史』収載)や、鉄舟の薫陶を受け「無心流」を開いた香川 輝(福島県知事)の『剣道極意』(大正5年刊『近代剣道名著大系 第四巻』所収)などを繙くべきでしょうが、今回は、無刀流の思想を受け継いで、地方の青年層に寒稽古の指導を通じて修養の重要性を説いた、牧野 秀の剣道観を紹介したいと思います。(『剣道の歴史』全剣連 第四部第八章および資料編を参照下さい)
1、牧野 秀
彼は明治20年12月、愛知県愛知郡に生まれました。42年3月に愛知県第一師範学校を卒業し、同校の剣術教師であった小野派一刀流杉山令二から44年8月「一刀流兵法皆伝」を授与されます。牧野を知る日進町野方の出原佃氏によれば(調査は昭和48年)、師範学校卒業後も職務を終えると、名古屋市内の杉山の道場(盡心館)へ高熱の折にも休まず毎晩通って修行を続けたとのことで、その努力が実って皆伝を許されたのでしょう。卒業後は愛知郡の小学校の訓導に始まり、大正5年には29歳で校長兼任となります。
牧野の門人帳は明治44年に書き始められ、大正8年9月にまでに244名の入門者がありました。大正12年5月、財団法人修養団理事に就任しますが、以後この活動に専念し、剣道との関わりはほとんどなかった模様です。終戦後も修養団の総務として復興への努力を傾け、昭和30年7月19日、69歳で死去、22日修養団葬をもって追悼されました。
2、『剣道修行之栞』について
牧野の著書として『剣道修業之栞』(大正6年刊)があります。
第一章「剣道乃修業」には、
剣道の修業とは、所謂剣を使用する業の修練を以って方便とし、神聖なる剣の霊により精神を修養し、徳性を涵養し、人格を高尚にし、完全なる個人となり、完全なる社会の一人となり、完全なる国民たるの道念を確固たらしむにあり。
と記され、現代剣道の理念に相通ずる修養論や人間形成論を修行の目的としています。牧野の剣道観の特色は、第八章の「竹刀の略解」によく表われています。「本館標準竹刀は、総長三尺二寸、身の長さ二尺三寸、柄長九寸、重量二百匁乃至四百匁(750〜1,500グラム)とす」とあり、無刀流の竹刀が直ぐに想起されます。
牧野の文中、先師という表現が随所に見られますが、誰を指すか不明です。先師の遺訓という個所から推して、杉山令二の義父保次郎(当時存命)の師事した山岡鉄舟のことと考えるのが妥当と思います。
3、修養としての剣道
牧野は、師杉山令二から受けた小野派一刀流(無刀流的)の理念に師範学校で学んだ近代的教授法をとり入れ、剣道を通じて青少年を教育しようと試みました。彼の指導の特徴は、「修養と不動心の涵養」を課題として、日常生活との関連で剣道の目的を説いたことにあります。彼は、寒稽古を中心とする指導を通じ、農村部の青年に、班別学習・寄宿舎生活(30日間)を体験させ、指導性・自主性・独創性および協調性を教育しようとしたといえましよう。
修養の明治、教養の大正といわれる時代の転換期に、修養を剣道の課題として、無刀流の短大な竹刀を用いて青少年を教育しようとした牧野でしたが、大正12年、修養そのものを目的とする修養団(東京師範学校卒業生、蓮沼門三を主幹として、明治41年に発足、「瞑想・流汗・偉人崇拝」を修養の三主義とする。農村部の青年層を対象に、天幕<テント>講習会を通して、共同作業や学習会などの活動を行った。)に理事として入団し、剣道から離れて行きます。
このことは何を意味するのでしょうか。推察の域を出ませんが、これを彼の修養論の青少年教育に対する意識の広がり(青年の修養のみを目的とする活動ならば、修養団に入団することこそが、彼にとっての天職となりうると信じたからではないでしょうか)と、剣道指導の限界(流派性の残存および鍛練者・既習者向きと思われる無刀流の理念と極太竹刀)とみることもできます。
牧野の活動からは、修養としての剣道の重要な伝統性を再確認するとともに、それを前面に出す青少年指導の難しさが感じられます。
(つづく)
*この剣術歴史読み物は、2002年5月〜2003年7月まで3名の筆者によりリレー形式で15回に渡り月刊「剣窓」に連載したものを再掲載しています。