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広報・資料小委員会コラム
第2回 直心影流にみる形稽古としない打ち込み稽古の兼修
委員 軽米 克尊
私はこれまで近世中期に興った「直心影流」という剣術流派の研究を続けてきました。直心影流はしない(竹刀)と身を守る道具を用いて相手と自由に打ち合う「しない打ち込み稽古」を自流の修練に取り入れ、流行させたことで有名です。これら2つの修練方法を兼修する稽古形態は現代剣道にまで受け継がれていますが、両者のバランスや関係性は歴史の中で変化をしてきました。私はこの点に関心を抱いています。
本来、しない打ち込み稽古は形稽古を補うためのものであり、当初は形稽古が「主」、しない打ち込み稽古が「従」の関係であったと言えます。一方で、形稽古で学ぶ技術はしない打ち込み稽古においてその流派の特徴として表れたでしょうから、両者の関係は本来、「相互補完」的であったと考えられます。しかし、実際には時代が下りしない打ち込み稽古が盛んになるにつれ、主従関係が逆転し、時には互いに対立し争う「相克」の関係になることもあったようです。
直心影流の伝系においても、その前身である直心正統流から2つの稽古法の兼修が行われてきたものの、両者のバランスや関係性は、近世後期における3つの分派に至るまで、近世期を通じて変化し続けてきました。本稿では形稽古としない打ち込み稽古の関係性、修練のバランスが直心流―直心正統流―直心影流という流れの中でいかに変化してきたかをご紹介したいと思います。
(1)直心影流前史―直心流から直心正統流まで―
直心流では、身を守る道具を用いるのは「防ごうとする心」の表れであり、理想とする精神性である「直心」にそぐわない、という理由で身を守る道具の使用が否定されていました。
直心流のこのような態度は直心正統流から一新され、しない打ち込み稽古が取り入れられます。直心正統流を創始したのは高橋弾正左衛門重治という人物です。この人物の弟子で直心正統流二代を名乗った山田平左衛門光徳(直心影流成立以降の伝書においては、この人物が直心影流と名乗ったとされていますが、実際には光徳の子である長沼四郎左衛門国郷から直心影流を名乗っています)が記した『兵法雑記』には、「面」「手袋」「小具足」で身を固め、互いに遠慮なく勇気をもって勝負を争う、という記述がみられます。形稽古については、法定の形4本のみであったようで、この時点では法定としない打ち込み稽古の兼修により修練がなされていたと考えられます。
法定4本の基となる形は直心流の頃から存在していましたが、この4本の形を「法定」と呼び始めたのは直心正統流以降です。この語の意味は『兵法雑記』に「法定ト云ハカマエ切組トモニ定式ヲ以法定ト云」とあるように「構えや打ち方の定式」というものです。本来、構えや打ち方が定められた約束稽古である形に対して、なぜあえてこのような名称を付けたのでしょうか。山田平左衛門光徳は「初心ヨリ気勢ヲハラセ朴刀ヲ強ク打セ進ムコトヲハゲマスレバ勝身ハ早ク本ツクヤウナレトモ形ヲクヅシ容法乱テ進付混乱ス先師ハ其進ムヲ忌テ無勝負ニシテ形ヲ直ニト教タリ」と、初心から気勢を張らせ、強く打たせると、形を崩し、姿や所作が乱れて修行がうまく進まない、そのため師(高橋弾正左衛門重治)は初心の段階では勝負を行わず、形をそのまま教えることにした、と述べています。換言すれば、当時、勝負に拘泥するあまり、形が崩れるという事態が発生していたと考えられます。法定という名称は勝負に拘り形を崩してしまうことへの警鐘を鳴らしたものであると捉えられます。
(2)直心影流における兼修の原初形態
山田平左衛門光徳の子であり、直心影流と名乗りはじめた長沼四郎左衛門国郷の頃から新たにしない打ち込み稽古の基本の形とされる14本の形「十之形」が成立します。したがって、直心影流成立当初は、それまでの直心正統流の兼修スタイル(法定+しない打ち込み稽古)に十之形が加わった様式であったと考えられます。
十之形の特徴はその構成です。1本目「龍尾 左」と2本目「龍尾 右」のように左右で対となっている形が大半を占め、足遣い、打ち込む部位、構えなどが左右対称となっている箇所が多く見られます。これは相手の動作に対して自在に変化することが求められるしない打ち込み稽古を想定しているからであり、この点こそが、十之形がしない打ち込み稽古の基本の形といわれる所以です。
このような直心影流のしない打ち込み稽古の技術的特徴としては、①上段の構え、②仕掛け技を中心に遣いつつも、相手の動きに対し自在に対応できること、③俊敏な足遣いが挙げられます。
(3)近世後期における三派の相違
近世後期において、直心影流は①長沼派、②藤川派、③男谷派という三派に分化し、各派がそれぞれの修練形態を有していました。修練形態の相違が発生した原因の一つとして、各分派の剣術に対する考え方、いわば「剣術観」が関わっていると私は考えています。各派の修練形態の特徴および剣術観は下記の通りです。
① 長沼派
形稽古…法定・十之形を含め多種類の形が修練されていた。
しない打ち込み稽古…上段の構えから打ちこむ剣術。
剣術観…上段の構えを特別視していた。また、しない打ち込み稽古と形稽古の兼修を重要視していた。特に勝負に傾倒し、形稽古を疎かにしないように説いていた。
②藤川派
形稽古…法定・十之形を含め5種類の形が修練されていた。
しない打ち込み稽古…上段の構えから打ちこむ剣術。
剣術観…上段の構えを特別視していた。当時の剣術が勝負に拘泥していることを指摘し、剣術修行によって、精神を鍛練することを説き、形稽古を特に重要視していた。
③男谷派
形稽古…他の派と同様、法定・十之形の技名を記した目録が伝授されているものの、後世の修行者によれば十之形は、しない打ち込み稽古の中にその技術として取り込まれ、形稽古という形式で学ばれていなかった。したがって、形としては法定のみが伝承されていた。
しない打ち込み稽古…上段に構えず精眼や下段に構えていた。
剣術観…流儀に拘らず、他流試合によって自流の短所を克服すべきと考えていた。
これら修練形態の変容には、武者修行が流行し他流試合が数多く行われるようになった当時の剣術界の状況が深く関わっていると考えられます。特に天保期、柳川藩から江戸へ武者修行に訪れた大石進の長竹刀による片手突きは物議を醸していたようです。流儀に拘ることなく他流試合によって自流の短所を補う、という実用的な剣術観を有していた男谷派が精眼や下段に構えていたことを踏まえると、当時の突き技の流行という事態に対して、直心影流伝統の上段の構えは不都合であった、と考えるのが自然です。
(4)まとめと今後の展開
以上、形稽古としない打ち込み稽古の兼修について、直心影流を事例に述べてきましたが、この歴史は「2つの稽古法のあるべき関係性やバランスを保つ難しさ」を物語っていると私は考えています。
2つの稽古法の兼修が始まった直心正統流において、本来、約束事である形の名称を「法定」と名付けたこと、近世後期において、男谷派が上段の構えを下した一方で、長沼派・藤川派は流儀を変えることなく他流試合を控え、形稽古に重点を置いたことなどは、勝負本位に走りがちなしない打ち込み稽古に歯止めをかけるための取り組みであったと考えてよいと思います。また、直心影流成立当初にしない打ち込み稽古の基本技術を集約した十之形が追加されたことについては、法定としない打ち込み稽古の技術にある程度の乖離があり、両者の中間に位置する存在が必要であったためではないか、と私は考えています。
2つの稽古法はバランスや関係性を変化させながらも、どちらも欠けることなく、今日まで兼修という形式が続けられてきました。我々も剣道という文化を修行し次世代に伝えていくために、この形稽古としない打ち込み稽古の関係性、バランスを常に考え、いかにあるべきかを模索していかなければならないと考えます。
次の研究課題としては、近代期における直心影流の展開として、山田次朗吉が指導した東京商科大学(現:一橋大学)剣道部を考察したいと思っています。現在、明らかになったこととして、大正初期頃までは山田次朗吉の指導が浸透し、形稽古がしない打ち込み稽古に影響を与えていたこと、広く対外試合が行われるようになると、部内がしない打ち込み稽古を中心とする「試合派」と直心影流の形稽古を重視する「法定派」に分裂・対立し、「相克」の関係になっていたことが挙げられます。
一方で、形稽古にはこれまでなかったような新たな機能がみられるようになります。それは「伝統ある直心影流の形を学んでいる」ことが部員のプライドの醸成、あるいは剣道部のアイデンティティの拠り所になっているという点です。この辺りは非常に興味深いところです。