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広報・資料小委員会コラム
第5回 現代武道の元を考える
委員 菊本 智之
私は、平成15・16年度より当委員会の活動に携わらせていただきました。当時、資料委員会は東日本と西日本に担当が分かれており、小職は静岡県に在住し勤務も浜松でありましたので、西日本の小委員会の委員を拝命しておりました。そこで、私が西日本小委員会の間に担当しました活動、業務について、大まかに振り返ってみたいと思います。
当時の西日本小委員会の業務は、平成16年の5月に開催される全日本剣道演武大会が、第1回武徳祭大演武会から数えて通算100回目の記念大会であったことから、これに合わせて『全日本剣道演武大会―明治期にみる武徳祭大演武会―』およびリーフレット「武徳祭大演武会 全日本剣道演武大会 100回のあゆみ」の作成、刊行準備の最中でした。幕末期に隆盛した剣術が明治という時代の転換期を経て、どのような人々によって伝えられ継承されてきたのか。また、すでに知られている著名な剣術家・剣士以外にも、この大会に参加するすべての参加者に当たることができれば、明治期に剣道を支えてきた人物やその修行の跡を辿ることができるのではないか。これを通算100回記念となる平成16年度の大会に合わせて刊行し、参加者・関係者に配付できれば、現在剣道に携わる多くの剣道人にとって非常に有意なことではないか。このような委員会の期待感と使命感をもって委員長を中心として業務に当たったと記憶しております。
その他、西日本の小委員会では、明治・大正期の静岡県剣術関係資料を調査研究し、続けて福岡県久留米藩の剣術師範役の加藤田平八郎に関係する資料によって江戸時代後期から明治期にかけての資料の評価・検討などが行われました。西日本としての最後の業務は、戦前の青年団の剣道の活動、実施状況などの調査研究でした。以前より西日本の故杉江正敏委員長によって指摘されていたところですが、青年団は戦前の剣道の普及、展開の一翼を担っていたことが知られながらも、これまで剣道の歴史、調査研究としてあまり取り上げられてこなかったという状況がありました。故杉江委員長の遺志を受け継ぐ形で、後任の湯浅晃委員長が中心となり、青年団の活動、剣道の実施状況の実態、これらに関連する研究が委員会の業務として行われました。この委員会の業務については、剣道の歴史研究上重要な役割を果たす資料であるという評価をいただき『戦前・青年団における剣道の実施状況について』(報告書)は、電子媒体(PDF)での公開と同時に冊子での発刊、公開となりました。
このように、西日本小委員会の活動は、主に現代剣道の基盤となっている近世後期、幕末から近代(戦前)における剣道の普及・発展の様子、歴史の調査、研究、検討を通して、現代剣道の普及、発展の経緯を明らかにし、多くの方々に現代剣道を考える礎にしていただくための作業であったと考えております。現在、資料小委員会は、東日本と西日本が統合され、一つの委員会として剣道の普及・発展のために活動しておりますが、引き続き剣道に携わる多くの方々、剣道人の興味、関心、研究に寄与できるように情報発信していくことが、委員としての務めではないかと思っております。
さて、ここからは私自身のこれまでの研究と現在の研究課題について述べてみたいと思います。
私のこれまでの研究の多くは、近世江戸時代を代表する為政者たちの武芸修行の様子を調査研究し、そこに見られる武芸思想や武芸流派に流れる考え方、思想などについて研究して参りました。そのきっかけとなったのは、大学院1年生の時に研究室で行った武芸関係史料の調査でした。研究室の主任教授であられた入江康平教授(筑波大学名誉教授)と前林清和先生(現神戸学院大学教授)に同行して、桑名藩松平家の関係史料が所蔵されている桑名の鎮國守國神社に赴き松平定信の武芸関係史料の調査、蒐集を行いました。ご存じのように、松平定信は老中筆頭として江戸の三大改革の一つである「寛政の改革」を断行した人物ですが、松平定信は徳川御三卿の筆頭田安家の出身で、将来的に将軍家を継ぐ可能性があった人物です。しかし、11代将軍は政治的な事情や思惑、意図が働いて、実際には継承の順位が下の一橋家の家斉が継いでいます。松平定信は、白河藩の久松松平家に入って政治手腕を発揮し、その後、幕府の老中筆頭として政治を主導します。藩内のみならず当時の社会全体に渡って武芸奨励策などを駆使して、当時困難な時代を立て直すべく手腕を奮いました。
松平定信は将軍家の一員として、恵まれた環境と非常に優れた指導者から様々な武芸を学んでいますが、その修行は一流の武術家にも引けを取らないものだったようです。松平定信の修行した剣術は新陰流ですが、その師は木村佐左衛門是有という人物で、徳川吉宗(松平定信の祖父)が自ら学び我が子(田安宗武=松平定信の父)に付けた西脇流系統の新陰流(柳生新陰流の一派)の師範でした。徳川吉宗以降の将軍家では、将軍家指南役としての役職は江戸柳生家が務めたようですが、実質的には実力に勝る木村佐左衛門系の師範が新陰流の指導の上で大きな存在になっていたようです。松平定信は、剣術のみならず、弓術、柔術、槍術、馬術、砲術、火術など数多くの流派を修行し、それぞれ免許皆伝を受けるなど相当に高いレベルに達していたことが明らかになりました。また、一つの流派を極めるだけでなく、他のいくつかの流派を研究し、新たな流派を創設して藩内の家臣に指導し、伝授するなど積極的に武芸の普及、発展にもエネルギーを注いでいたことが窺えます。特に最晩年まで傾倒し修行したのは、起倒流柔道でしたが、この起倒流はもともと柳生宗矩の下で新陰流兵法を修行した茨木又左衛門俊房(専斎)によって創始された流派であり、その流れを汲む鈴木清兵衛邦教の起倒流柔道を随身修行し、免許皆伝に達しました。さらに定信が入った久松松平家には、同じく柳生宗矩の下で新陰流兵法を学んだ藩祖松平定綱の立てた甲乙流がありましたが、これはその伝が途絶えており、定信によって復元されました。そしてこの甲乙流と鈴木清兵衛の行う起倒流柔道は、その真意において違うことはないとしてこれらの技法を融合させ整備し、新たに甲乙流と命名して我が子や昵懇の家臣に伝授したことが明らかになりました。その他、御家流軍学、御家流弓術、御家流火術、山本流居合術、御家流突刀術などの新たな流派を開発したり、他流の長所を採り入れて流派を改良、発展させるなど、積極的な武芸活動を行っています。
当初、松平定信を近世の優れた武芸家の一人として注目し研究を行っていましたが、現代武道の元となっている近世武芸の全容を明らかにしていくには、宮本武蔵のような名人達人といった個人の武芸思想を明らかにすること以上に、当時の社会に最も影響を与える立場にある政治主導者や為政者がどのような考えの下に武芸修行を行い、またその人たちが修行、稽古などを通して、どのような思想や発想、アイデアを生み出し、社会に発信していったのか、ということを明らかにすることが、非常に重要で意義があるのではないかと考えるようになりました。
これらの研究を足がかりとして、松平定信の祖父である徳川吉宗の武芸修行や武芸政策についても研究を進め、さらに、松平定信の構築した武芸思想と武芸の技法をそのまま受け継いだ次男の真田幸貫の武芸修行や武芸政策などについて、発展的に研究を広げていきました。つまり、江戸時代の中期に徳川幕府を立て直すべく紀州藩主から将軍家に入り「享保の改革」をおこなった徳川吉宗。将軍家の一員である自覚の下、武芸の修行を通して政治思想を創り上げ、それを白河藩の藩政、「寛政の改革」で実践した松平定信。松平定信の下で養育され、松代藩の藩政とともに海防を担う勝手掛老中として水野忠邦と共に「天保の改革」で手腕を奮った真田幸貫。これら徳川吉宗の血脈を継ぐ江戸の三大改革期の中心人物に着目し、その武芸修行と実践、そこに見いだされる武芸思想やそれに基づいた社会や武芸界への発信について明らかにしていくことは、社会が困難な状況にある改革期に、武芸の実戦性以上に何が求められたのか、当時、社会の一員として、人間として、何を目的に武芸が行われたのか、その必要性はどこに求められたのか、これらを明らかにしていく一助となるのではないかと考えています。
ちなみに、幕末の最後の最も混乱した時期に幕府の老中筆頭として困難な時代を切り盛りしたのは、松平定信の孫の板倉勝静でした。今後も引き続き、このような観点から近世武芸の様相、為政者として社会に影響力をもった人物にスポットを充てて、近世武芸思想にアプローチしていきたいと考えています。
現代もまた、想定外のことが次々と起こり、ある意味非常に困難の多い時代です。このような激動の時代に求められた武道の意味は何なのでしょうか。文部科学省も剣道の伝統性や文化を学ぶことの重要性を提示していますが、そこで学ぶべき内容、目的は、何でしょうか。全国の全ての中学校1,2年生が学ぶべき教材として考えた場合、他の運動領域でも代替できるような競技性、ゲーム性の持つ攻防の楽しみを学習することの優先順位はそれほど高くないと思っています。できる、できない、上手い、下手を峻別する内容以上に、武道の領域でしか学べないもの、武道だからこそできる特有の学びについて考えていくことが大切ではないかと個人的には考えています。
そこで、どの段階、レベルにあっても取り組むことができる「かた(形)」を中心とした学習を中学生用に教材化できないか、研究を進めているところです。これは多様化が求められる時代にあって、様々な学習段階にある中学生が学ぶ手段としての有効性を考えることでもあります。その一つとして、習字や箸の持ち方を覚えてきたように、お手本から一生懸命主体的・対話的に学び、繰り返し自分に投影する作業を繰り返して学んでいくという「かた」を通して学ぶ方法には、現代教育においても大きな可能性があると考えています。つまり我が国固有の伝統と文化である「かた」を通して、その「学び方を学ぶ」ということです。多様で個人差、体力差、能力差の大きい義務教育の全ての中学生の学びとして可能性があるのではないかと考えているところです。
これも、近世の全ての武士たちが武芸を修行してきた様子を研究したことから生まれた考えであり、また当時の政治を主導してきた為政者が、自らの体験から導き出した武芸思想によって社会に発信していった様子から、生まれた発想です。将来的に剣道の発展を考えたときに、中学校の武道の必修化が、保健体育科において単にスポーツの種目が一つ増えただけ、ということにならないように、剣道に携わる私たち自身が常に考えていかなければならないことだと思っています。