図書
広報・資料小委員会コラム
第8回 「在村剣術流派の研究」
委員 数馬 広二
はじめに
私が資料委員会に加わらせていただいたのは1996(平成8)年です。当時、全日本剣道連盟が長年の調査を重ね蒐集した古流と武術専門学校の複写資料の存在を知りました。それらの所蔵資料の解説として1998(平成10)年に『剣術関係古文書解説』を、翌年に『剣術関係古文書解説(二)』を、2003(平成15)年に『鈴鹿家文書解説』が刊行されました。編集作業にも加わる中で、流儀の内容に触れるだけでなく、流儀の宗家からも直接お話をきく貴重な機会もいただきました。また2014(平成26)年刊行の『絵図と写真に見る剣道文化史』では、「江戸切絵図」に千葉周作(北辰一刀流)、中西忠蔵(一刀流中西派)、樋口十郎右衛門(馬庭念流)などの名があることに江戸の古地図を見る楽しさも覚えました。
1.幕末関東在村の剣術流派との出会い
現在も続けている研究テーマは江戸時代の村落に存在した剣術流派について知ることです。江戸市中で千葉周作らが旗本の子弟らを集め隆盛となった玄武館などの町道場がよく知られていますが、同じ時代に、関東農村部に普及した剣術流派がありました。
渡邊一郎氏によれば、万延元年(1860)の英名録に、関東で相模国5流(39名)、武蔵国14流(309名)、上野国8流(58名)、下野国7流(30名)、常陸国5流(16名)、下総国7流(66名)、上総国8流(70名)、安房国1流(9名)の剣術家の記載があり、農民の姓名も記されているのです。
私が初めて調査した流派は修士論文作成の際、房総半島(千葉県)で幕末期に普及した「不二心流」でした。千葉県内の匝瑳郡、木更津市、袖ケ浦町、君津市、勝浦市でその痕跡を辿る中で、長いひげを蓄え身長6尺(約182㎝)の開祖中村一心斎の肖像画が個人宅に所蔵されていることがわかりました。この肖像画から、それまで知られていた呼吸法を取り入れた剣術指導のほかに、小谷三志が庶民に広めた富士山信仰「不二道」との関連も見えてきました。就職後は、太平真鏡流(栃木県栃木市、山梨県南アルプス市、東京都八王子市)、天然理心流(東京都八王子市、調布市、日野市)、甲源一刀流(埼玉県日高市、八王子市)、馬庭念流(群馬県、埼玉県、長野県、東京都、香川県,三重県など)の調査を進めてまいりました。
これらの調査を振り返りますと、江戸時代の村落での剣術流派の普及について、「兵農分離、刀狩り、百姓帯刀禁止というドグマ的通念にいささか問題がある」とする高橋敏氏のご指摘を裏付ける事例が数多くありました。
2.剣術古文書調査について
剣術古文書の調査は、はじめに市町村教育委員会を通して、かつての門人宅をご紹介いただくことから始まります。車で長時間かかる山あいの地域への調査には体力を消耗しますが、取材先のお宅であたたかく迎えていただくと元気が回復します。剣術古文書や太刀、長刀、鑓などの貴重資料を拝見し、その地でなぜ武術(剣術)が伝承されたのか、道場はどこにあったのかなどのインタビューをすすめると、江戸時代以前の戦国時代に侍(さむらい)であったことの矜持、個人の護身などのほか、むらの人々が剣術流派に華やかな江戸文化と繋がることをも期待していたのではないかと感じることもありました。
さて、剣術古文書について分類しますと、まず入門に際して宗家へ提出する「天罰起請文」があります。そこには武の神である摩利支尊天、飯縄権現や地元の神々へ稽古の精勤、他流試合の禁止、免許なき者による指導の禁止などを誓い、それに背けば無間地獄に落ちることが記されています。そこに居住する村名、姓名を記した上で押された血判は、公的には苗字を名乗ることのできなかった時代に農民が剣術流派へ入門することへの強い覚悟を感じます。
また伝授状として「切紙(技の修得を認める紙片)」や「目録(一定以上の種類の技を修得したことを認めるもので、巻物になっているものが多い)」、「免許(流儀の内容を教えることを許された文書。巻物のみでなく一枚の折り紙もある。)」があり、「家系図(巻物)」、「神社奉納額寄付姓名簿(冊子)」、「道場落成時の寄付者名簿(冊子)」、そして宗家への書簡など多種あります。
3.書簡の中の剣術風景
その剣術古文書の中で、書簡に注目してみますと、剣道の参考になりそうな(あくまでも個人の感想ですが)記述を見つけることがあります。たとえば時代は遡り400年前の1618年ごろ、馬庭念流の宗家9代目樋口頼次(勘三)が近江国彦根にいた師匠・友松儀庵のもとで修行し上達した様子を儀庵が親戚に認めた書簡があります。そこには、「勘三兵法もかたく御座候つるを、むっくりとなして・・・」(はじめ硬さが残っていたが今は丸みを帯び、ふっくらとなりました)といっています。ここに書かれた「むっくり」は、戦国末期、力みのない構えや体捌きであったことを想像しつつ、いま、あるべき身体操法を習得する助けとなりそうです。
また、現在は生涯剣道を体現されている方が多くおられますが、200年ほど前の寛政5年(1793)7月、念流14世の樋口定暠は92歳。その円熟した技を江戸城内で老中・松平定信に披露し「常にいふ、わが術殊に拙し、流儀の趣意もしらざりしが、漸く七十路の頃より、少し心得しことありし、それよりも修行せしが、九十のときより、またふと心得たることありて、其後は剣つかふにもこころよしといふ、是にてつたなからぬはしるべし、念流といふなり」といったとされます。農民樋口定暠は、70歳を過ぎて少し剣の道理がわかり、90歳でもふと自得することがあったと言います(『退閑雑記』)。稽古を続けてゆけば希望の光を見いだせるかも知れない、と励まされる一文です。
また全剣連ホームページ「図書」欄に書かせていただきましたが、新選組の局長近藤 勇(1834~1868)が、京都・壬生屯所から、天然理心流の門人へ宛てた手紙の一節に「白刃の戦いは竹刀の稽古とは格別の違いもこれなき候あいだ、剣術執行はよくよく致し置きたき事にござ候。」(刀での実戦は竹刀稽古と大きな違いは無いので、竹刀稽古をしっかり積んでおくこと)。(『幕末在村剣術と現代剣道』第3回の「天然理心流・近藤勇の巻」)とあります。幕末動乱期の竹刀稽古は実戦を想定し、正しい刃筋や物打などが厳格に求められた稽古であったと想像できます。
このように、古文書の中に現在の剣道につながる記述があることも、私にとって研究を継続する動機の一つになっています。
4.武術奉納額の保存について
皆様も神社をお参りのとき、境内に木刀のかかった額を見つけることがおありかもしれません。江戸時代の剣術流派は姓名額を神社に奉納することを通じ、世に流名を知らしめるとともに、流派内で門人の結束も確認しました。たとえば群馬県の馬庭念流が奉納した場所は、妙義神社(1770年・1846年)、伊勢内宮(1832年)、神田明神(1850年)、高崎八幡八幡宮(1797年・1850年)、金比羅宮(1855年)、鶴岡八幡宮(1857年)、日光東照宮(1864年)など20箇所以上にのぼります。大きいもので縦2.5m×横3.5m×厚さ15cmほどあり、掲額は大変な作業であったことがうかがえます。このうち群馬県高崎市の八幡八幡宮には「太々御神楽」「矢留術」と記された馬庭念流の美しい額面が現存します。馬庭念流宗家の名を金字で記した表面には木刀、弓と矢が掛かっており、そのほか872名(目代10名、目録129名を含む門人)の姓名が墨書された額2面もあります。額奉納の際は、神社境内で太々神楽を舞い、念流の形を演武し、額を奉納しました。
これまで私が存在を確認できた額は多くなく、それらも長年の風雨による損耗が進んでおります。安全管理上の配慮から神社側の苦渋の判断で取り外されることは仕方ないとはいえ、剣術の歴史を語る文化財として、今後将来、何らかの方法で武術奉納額が保存されることを切望しています。
おわりに
以上、拙い研究の一端を紹介させていただきました。次の世代の皆様へ、剣道の歴史や良さを多面的かつ、わかりやすく表現できるよう、研究をすすめるのが私の立場であろうと思います。これからも皆様のご指導をよろしく御願い申し上げます。
<注釈>
1 渡邊一郎:『幕末関東剣術英名録の研究』:1967年
2 高橋敏:『国定忠次の時代-読み書きと剣術』,平凡社選書,東京:1991年
3 渡邉一郎:「武芸・修行」,『日本古文書学講座』近世編3,雄山閣出版,pp180-191:1980年
4 個人蔵:友松儀庵から松本新八への書簡
5 松平定信:『退閑雑記』早稲田大学図書館蔵
6 吉野家文書:近藤勇から吉野家への書簡