図 書
現代剣道百家箴
念 力
伊藤 京逸(全剣連監事)
わが刀匠としての人間国宝は、四国宇和島の高橋貞吉氏逝いて、現在のところ宮入昭平氏一人となっているが、彼の著書『刀匠一代』には、「向う鎚の重さは、一番重いんで三貫目、そのほか二貫目、一貫目とあるんですが、これを振るうにゃ、ただ体力だけぢゃだめだ、修練ですね。馬鹿力さえありゃいいってもんじゃない」と言い、わが国最古の剣術といわれる念流については、考証のさだかでない点も多々あるが、『剣聖秘聞』を書いた水上準也氏はその開祖の慈恩(慈音、一念無刀斎、念大和尚ともいう)をして、次の発言をなさしめている。「よいか、いかに術というは工夫したとて、強力のみでは事足りるものではない、すべては念力である。」明治・大正・昭和にかけての剣聖高野佐三郎先生の遺稿である剣談の「心気力一致」のところでは、「一刀流で妙剣と言い、絶妙剣と言うのは、無念無想以外の何ものでもないのであります。練習により、無念無想というか、一心不乱と言うか、精神統一というか、時に、その心から発した自由自在な進退掛引動作を身につけることが、剣道修業者としては、一番大切なことであります」と説述しておられるのである。
われわれがわが五体内に潜在するあらゆる面のいわゆる全能力を出しきろうとすると、えてして、大脳辺縁系(旧脳)の本能的中枢が働きかけて、あとあとのわれわれの生体のためにはよろしくないぞと、その力を十二分に出させまいとブレーキをかけ、結局はせいぜい八-九分どまりに終ってしまうのである。これを瞬時に、適確に出し切るためにはどうすればよいのか、転々苦慮するのみである。
われわれの剣道仕合(試合)における一本一本は、古来伝書に謂う麒麟の技であってほしいものだ。これがためには、肉眼ばかりでなく心眼を大きく見ひらいての注意力も、間髪を容れぬタイミングの佳さも、また、湧出される力そのものもすべての要素が瞬時的に決断発現されなくてはならないのである。これら総括的な瞬発力こそ念力であろう。砕いて申せば、高野剣聖の一心不乱の積みかさねにつきると言って差支えないのである。オーバーともならば、ほんのちょっとのことでかかってしまうきびしい制動発条に、「ここまではよいのだ、まだこれ位はよいのだ」とゆとりをあたえ、わが身を馴らしてゆかなくてはならない、すなわち長い月日を要し、しかも倦まない精神力の成果に俟つしかないのである。
それだけに、一抹の淋しさは拂拭すべくもないが、然しわれわれは、茲に身を挺して行ずる者の貴さと醍醐味とを汲みとらなくてはならないと覚悟するものである。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。