図 書
現代剣道百家箴
真剣勝負のつもりで
伊保 清次(剣道教士八段/全剣連常任理事)
剣道を健康のためにする人もいよう。美容のためにする女性もいるらしい。スポーツとして楽しむ若い人もいるようだ。どれも悪くない。それぞれの目的のために剣道は役立つ。したがって剣道はいろいろに変化し、いろいろの剣道が存在するわけである。
私の剣道は真剣勝負である。相手を殺さねば自分が殺される。死ぬか生きるかの瀬戸際に立って相手と渡り合う。絶体絶命の境地に立たされたものとしての剣道をやっている。
したがって、姿勢がどうの、風格がどうのと、悠長なことはいっておれない。とにかく、相手を打ち負かして生きのびなくてはならない。
「生きること」これが先決である。石にかじりついても生きようともがく、この人間の本能を、そのまま剣道で現わして相手と闘う。であるから、私の相手が持っているのは、竹刀ではなくて、ちょっとふれただけで腕が切り落されてしまう程に鋭利な日本刀である、いわゆる真剣であると深く心にいいきかせている。だから、竹刀でなぐり合いしているのではなく、真剣で斬り合いをしているのだと考える。
剣道家の中には、相手に打たれても平気な顔で悠然とつっ立っている人があるが、私の剣道の考え方によると、そういう人は真剣だったら命がいくつあっても足りない。幽霊が剣道しているようなものだ。然し、この人にはまたこの人の流儀の剣道があって、自分なりの剣道を楽しんでいるのだから、はたからとやかくはいえまい。閑話休題。
剣道を真剣勝負と心にきめてやると、剣道は外のスポーツのように楽しくはない。命がけの連続だから身のちぢむ思いである。身体が頑強で、タフな精神の持主でないと続かない。一般の人にはおすすめできないわけである。そんな苦しいものを何故やるかと問われると答えに困る。ちょうど一歩誤まれば命を失うような険わしい高山の断崖絶壁を、なぜ選り好んで登山するのかと問われるようなもので、人間にはこのように楽を避けて苦難に立ち向ってゆく性質があるらしいのである。
真剣勝負の剣道は、このように苦しい。一瞬の油断が命を落すことになるからである。結局自分自身に対して妥協がゆるされないわけで、その点自己に対してきびしい。
相手の竹刀は日本刀だと思い込んでいるから恐い。この恐怖感が起こらないと本物ではない。日本刀をつきつけられて恐くない人は無いからである。この恐怖感と闘うことが一つの命題である。竹刀を真剣と仮定し、そこから人間の本能にもとづく恐怖感を引き出し、今度は逆にその恐怖感と闘って恐怖感を克服しようと試みる。これが私の剣道に対する姿勢である。困難であることは分り切っている。しかし、やらねばならないと思う。もう後へは引き返せないところまできているからである。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。