図 書
現代剣道百家箴
追想
安田 政次郎(剣道範士八段)
いつしか65才の坂を越した今日、静かに過去を顧みるとき、うたかたの人生に残るものは剣一筋に歩んだ道だけである。
私は滝の水が酒になったという孝子の伝説で有名な、養老のふもと高田で呱々の声をあげ、8才のころより竹刀を握った。この地は片田舎でも、剣道がなかなか盛んで、学校或いは警察署の道場では青年が盛んに剣道の練習をしていたのでよく見に行った。自分もやってみたくなって青年団の人に頼んで剣道を学んだが、やってみるとなかなか面白いので、だんだん興味が湧いた。それで、剣道に意欲が燃え出した私は、「立派な先生について剣道の修業をしよう」と思い出すと、じっとしておれなくて15才ころ名古屋へ出た。そして、当時町道場を開いていて有名だった高尚館の門を叩いた。そして故剣道範士加藤貫一、故剣道範士加藤七左ェ門の両先生にその旨をお願いした。
両先生は、口を揃えて「剣道の修業は非常に辛い事であり、苦しい事である。お前のような身体の細い者では辛抱が出来ないだろう。それに途中で止めるようなことなら、初めから習わないほうがよい。……」などと諭され、最後に「一生剣道が続けられる決心がつき、その約束が出来るか今一度家に帰ってよく考えてこい!」というような、厳しい言葉で入門が許されなかった。私は家に帰って、よくよく考えたのであるが益々その厳しさに心をひかれて、一生を剣道に捧げる決心をし、再度高尚館を訪れて両先生にその旨を申上げ、約束をして始めて入門を許された。それより、自ら求めた苦節の修業の道が始まった。先ず最初の半年間は、す振り、切返しの連続で、防具を付けての練習は許されなかった。こうした永い永い修業の道を回顧すると、途中でいろいろの迷いが生じ、幾度か道を見失い、時に挫折しそうになったことも度々あったが、その都度、かって先生に諭された事や、約束をした事共を思い出しては、気を取り直し、自らを戒めて修業に励んだものである。今でもそれがみんな、懐かしい思い出となって眼に浮んでくる。昔の高尚館の道場は、四間と五間のもので広い方ではなかったが、稽古は非常に荒く、足がらみ、体当りの連続で、ほんとうに荒稽古であった。先輩に体当りで羽目板にぶつけられてばかりいた私は、その都度「羽目板があるから、そこで体が止まるからよい様なものであるが、羽目板の後ろが断崖絶壁であり千仞の谷であったらどうするか……当然のこと体当りを受ける工夫や、体をかわす工夫をしなければならないはずだ!」と先生から厳しく諭されたものである。そのお陰で、そのコツを心得るようになった。また私が少し怠けていると老先生は「剣道は死ぬまで修業だっ!」と何時も強く諭されたものであった。
こうして迂余曲折の多かった人生も、今となって脳裡を去来するものは竹刀の持ち方も知らなかったころより今日に至るまで幾度か人生の岐路に立ちながら、そのたびにその苦難の道を乗り越え得たものは、即ち師から教わり、自ら体得した剣の道であったと深く感ずる今日このごろである。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。