図 書
現代剣道百家箴
剣道一途
山中 義貞(剣道範士)
私の剣道の歴史は8、9才のときにはじまる。それから60有余歳、剣道だけについていえば、一筋に生きたといえる。事実は、明治、大正、昭和三代にわたる政治、経済、文化の多彩で、しかし多難、波瀾の時代を明け暮れしてきたのであるが、その全生涯のいかなるときにも、私は一筋ついに貫き得たこの剣道が心身の強い支えになったことを堅く信じて疑わない。いまなお私は日日矍鑠として余生の楽しみを味っているが、静かに回顧して、よくぞ剣道に学び、剣道に鍛えたものかなと改めて深い感動を覚える。今は亡き中山博道先生、小川金之助先生、今なおお元気でいられる持田先生の御教導、剣友として親しくたたき込んで下さった津崎、佐藤忠三先生等に心から感謝の誠を捧げる次第である。
全日本剣道連盟が生まれて満20年、本年は財団法人として出発する事となり感激に耐えません。私は副会長として、また顧問として、及ばずながら今日まで大功績ある木村会長を扶けてきたつもりであるが、大東亜戦争から敗戦の激動の時を経て剣道もまたかずかずの苦難に会い変貌を見た。いま全剣連は登録会員40数万に達し、剣道はスポーツとしてわが国のみならず広く世界の国々にまで普及しつつある。まことに慶賀に堪えぬことであるが、剣道とは山岡鉄舟先生がいったように、剣の中に平和を求め、平和を創造しようとする人間修業の道であって、柔道といい弓道といい、すべてこの「道」は平和を願い人格の高潔を求める日本人の心なのである。この原点に帰り、しかも時勢に適応すること、これこそ、いま私たちが当面する最大の問題であろう。ここに、二、三思い出を記して後進の参考になればと願う。
その一は昭和15年、紀元2600年の記念行事として宮中で行われた天覧試合に選ばれたことである。全国で剣道篤志家として4人が選ばれたが、その中の一人として天覧試合の光栄に浴した。剣の道に精進してきた私にとっては、文字通り一世一代の名誉であった。
いま一つは戦時中のこと。当時、軍部は実戦武道と称し、ズボン、シャツの上に防具をつけ、野外で稽古をさせた。これには私は最後まで反対し、一度もそれをしなかった。剣道は本来、竹槍訓練といったものと同じに考えるべきものではない。剣道は道場において、稽古着に袴をつけ、礼に始って礼に終わるべきもので、実戦武道などと称して道を失い心を棄てる如きは誤ること甚だしいものであると信じたからだ。最近、常々、私の嘆かわしく思うことは、剣道大会などにおいて試合は古来の服装で厳粛に行われているにもかかわらず、これを審判する者が略装をもってすることである。剣道が道を極めるものであり、精神の高揚練磨にあるとすれば、いずれも真剣、厳正を旨とすべ きであろう。
最後に一つ。私の生家には父祖三代の「鉾石道場」があり、郷土の誇りとして日々郷民の心身練成の場であった。終戦後、連合軍兵士が進駐し、米倉に封印をし、かつこれを看視するため生家の一室を領して宿泊した。しかも、彼らはこの神聖な道場を土足でふみにじり、ダンスに興じて憚らなかった。この道場の神前には三笠宮殿下がご愛用の竹刀を御自身修理のうえ使用されたものを供え、稽古のいましめとしてあったが、兵士たちの行いは道場の神聖を冒し、剣道の威信を傷つけるものとして、ついに私は断腸、悲涙の嘆きに堪えて道場を打ち壊した。
当時、剣道は連合軍から軍国主義的なものとして禁止されたのであったが、私たちは同志相はかってスポーツに属する「竹刀競技」として細々ながらこれを守り、神社の広場などで稽古をつづけたのであった。今日の隆盛と思い合せて今昔の感まことに深いものがある。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。