図 書
現代剣道百家箴
剣道の修行
李家 孝(剣道範士/全剣連副会長)
私達が稽古して居た頃は、道場と云うものが自ら身を引きしめる環境を供え、常に道場には上座と下座が判然としていて稽古台になって頂く先生や先輩方には自然と礼儀正しく応待する気持ちがわいて来たのであったが、近頃は他の一般スポーツと一所に体育館などでやるのが多くなってどうも道場礼儀がすたれて来たように思う。
しかし、之も先生方にやる気さえあれば青天井の下でも立派な修業が昔は出来て居たのだから、体育館での稽古でも立派な礼儀のもとで見事な習練がつまれ得ると信ずるのである。剣道は礼に始まって礼に終わると云われる。人間社会人となって一番肝心な道徳心は礼の一字であり、礼の道こそは万民協同の理想社会の中核であるが、その礼の身につくのに剣道の修業ほど手近かのものはないと思う。このように考えると剣道家と謂れる人達でありながら、 礼儀を弁えないような人達は風上に置けない連中と云わねばならない。
剣道の修業は若い頃は技の上達を最高の目標としてお互いにライバル意識を発揮するのもよいが、後輩や弟子に稽古をつけるような年頃からは心の練磨を最高の目標としてお互いに相敬し、相愛し、社会人として衆の範となるような行動に徹する事こそ我々剣道人の姿であらねばならない。
飽く迄私達は武芸家であってはいけない。私達は飽く迄も武道家であり度いと思う。剣道の極意に無心と云うのがある。相手を倒し度いと云う欲が出ると手も足もそれに縛られて、出てはいけない時に手や足が出てしまって、こちらが倒される事が多いが、相手を倒すでもなし、自分が倒されるでもない無我の心ですっと立っていると相手は恐ろしくて手も足も出せなくなるものである。
社界での仕事でも同じで無心無欲の人程相手は恐ろしく見えるものだ。
武人では西郷隆盛、財人では渋沢栄一などよい例である。
剣道の修業によって身も心も健全な人物となり世の為人の為につくそうではないか。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。