図 書
現代剣道百家箴
剣道はスポーツか
大島 功(剣道教士/元全剣連常任理事)
20年前全日本剣道連盟が発足当時、常任理事として「剣道はスポーツといって宜しい」といい切った責任者の一人であるので、その問題に触れたい。
当時、文部省が学校体育の正科に剣道を採用するのについて、スポーツとしてなら採用し易いという事情もあったが、道場での稽古は同じ防具を着け、打突の部位を限定し、当事者の条件を平等にして勝敗を争うので、その限りではスポーツそのもので、真剣勝負からは遙かに遠い実情を踏まえ、敢えてスポーツといい切った次第である。
然し、剣道の伝統として、「剣道はスポーツに非ず」とする意見が圧倒的である。これは、明治になって野球、庭球、陸上競技、水泳等の外来スポーツが盛になり、その新奇を追う軽薄さや、興味本位の遊戯、カッコヨサの見せかけ等、武道として真面目に修錬を重ねた人から見ると眉をひそめるようなものであった。剣道をかようなスポーツと同視されることは、剣道人としては堪えられぬ侮辱であった。ちょっと器用でさえあれば、すぐその種目の選手になって盛名を馳せることができたが、剣道はそうは行かなかった。難行苦行、時に参禅する等、単なる技術だけでなく、精神の鍛錬にと工夫を要するほどの高いレベルになっていたのであって、さすが日本人の長い伝統に培われただけのことはあった。然し、その後外来スポーツも進歩し、単に技術を習得するだけでは足りず、精神的修錬をも加えなければ壁が破れぬ現状である。剣道の修錬に近づいて来たというべきである。或意味で、不真面目な剣道家ではとても叶わぬほど、心身ともに真剣に修錬している外来スポーツマンも出て来た。剣道人が他山の石として仰ぎたいほどのものである。
剣道の良さは、その真剣さにある。絶えずその発生源である真剣勝負を想起し、一挙手一投足をおろそかにせず、その意味を追究し、無駄を排して気息を養いつつ、一瞬有効打突によって相手を制する修錬によって身心にわたり人間を形成する。忍ぶべきは忍びつつ、闘志満満、勝利のための条件を用意し、機到って瞬発する激しさ、武田信玄の風林火山さながらの戦がここにある。そこに人間が生存の障害と戦い、生存の好条件を建設する気力と知恵が生まれる。人と人との結びつき、互に向上を願いつつ切磋琢磨される喜びと連帯感、自ら礼に始まって礼に終わり、相互の間に感謝と愛情が生まれる。これは単に剣道人の間だけに終わらず、家族親戚は素より地域社会、国家、世界に拡充せられるものである。人類の生存につながって、ともに生きる喜びとその手段を獲得することは、この世の森羅万象とともに生きる道となるであろう。スポーツはすべて立派な人間形成の道である。日本における剣道はその範を示しているというべきではなかろうか。思い上がって堕落せぬよう、われひとともに戒めなければならぬ。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。