図 書
現代剣道百家箴
天地の大道に直入する剣
大森 曹玄(全剣連参与/鉄舟会師家)
私は少年時代、有信館道場で剣道を学んだが、ものの道理が判りかけた頃から、剣道とは何だろうか、こんなことをしていていいのだろうか、と疑問に思い出した。相談する相手もなく、独り悩んでいたが、そんなとき雑誌で山田次朗吉という人の「剣道一夕話」と題する文章を読んだ。そこには、まず「剣道とは斬り、突き、撃つ抑ゆるの時にあるのではない。却って、酬酢(日常生活中のやりとり)の中に在る」と、述べられている。そして「剣道を辨えることによって、人は天地の大道に直入すべきである」ともあった。
「自分が十五代を相続する直心影流の要領は、”後来習態の容形を除き、本来清明の恒体に復するに在り”というところにある」このような記述を読んで、私は目の前が急に開けたように感じ、すぐに山田先生を訪ねた。榊原鍵吉先生から継承した道場は、関東大震災で焼かれ、先生は当時、鶯谷近くの小さな家に住んでおられた。始めは「道場がないから――」と、容易に入門を許されなかったが、日参して坐り込みをやった末、「では一ツ橋の商科大学(現一橋大学)の道場に来い」と、やっとのことで門弟の端に加えて頂いた。さて、翌日から道場に行くと、私も有段者の端くれであったが、竹刀も持たされない。ア、 ウン、ア、ウンと深い呼吸をしながら、一歩一歩を一直線上を踏んで歩かされる。直心影流の″直歩″という、″後来習態の容形を除く″基礎的な修練である。2、3ヵ月ほど、これをやらされた。
のちに、「これが出来れば免許だ」と先生に煽てられて、甲州の山寺で当時の商大剣道部委員長、大西英隆氏と二人で、法定の組太刀の百本稽古を1週間やったが、全く死ぬ苦しみだった。禅でいう大死一番で、これによって、心や体にこびりついた″後来習態の容形″が除かれ、″本来清明の恒体″に復帰することができるのである。
地稽古もその気合で、三尺三寸の短い竹刀で″打たれて″修行するのであるが、先生はいつも、「上段から打つときは、泰山の崩れかかるような気迫で打て」と教えられた。いまでは考えられないことであろう。このように徹底的に自我を殺し尽すことによって、天地の大道に直入し、本来清明の恒体に復する剣の道は、正しく禅そのものである。山田先生は「剣道に禅は不要だ」といわれたが、それも道理直心影流は、その修行が禅的なのである。私は、山田先生によって、人間形成の基礎的な身心学道として剣道を学び得たことを、ありがたいことだとつねに感謝している。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。