図 書
現代剣道百家箴
齋村五郎先生の教訓
岡田 守弘(剣道範士八段)
剣聖と謳われた齋村先生は昭和44年惜しくも他界されたが、先生は私にとって終世忘れることの出来ない剣道の恩師であり、人生の師表(模範・手本)でもあった。大正12年警視庁巡査を拝命した私は、同15年警視庁剣道助手となり、以来先生の下で32年間を過ごし、幾多の貴い教訓を受けた。
その間最も印象に残る一事は、昭和6年教師となり、20年を経たある日、凡そ7分間稽古を願った時のことである。先生は私の近間の稽古を矯正しようとの意味に於いてか、前半は私が打ち間に攻め入る心の起るところ、間合を外すこと二度、さらに攻めようとする心の起りを打たれ3・4分の間、同じことを繰り返して引きまわされ、私は全く打ち間にはいれず、後半、やや疲労を覚えた頃、先生は敢然と攻勢にかわり、一足一刀の打ち間からの面・小手・突きの打突を、前後合せて十幾本かの模範技を示して下され、如何に間合が重要であるかを、つぶさに教えて下さったが、私は残念ながら一本も打ち返すことが出来なかった。あの心技体一致の妙諦(神髄)による感激は、23年を経たこんにちでも忘れることが出来ない。稽古終了後お礼を申し上げると、先生は、「これが無言の教育で本当の剣道だ。君は左足が横踏みで姿勢が安定していない為に間合が近くなるのだから、この儘の稽古では60才を過ぎると急に衰える。剣道は60代が全盛で限界は80才位である。今からでもおそくはない初心に返り、切り返しと打ち込みのやりなおしをするように。」と諭された。
私はまた、先生の最も得意とする面技について、学生時代から既に体得しておられたものかどうか、うかがったところ、先生は当時を回想して次のように話して下された。「僕は武術教員養成所の学生時代不器用で、先生方から嫌われたものだ。卒業後武道専門学校助教となり、友人と共に東北地方に武者修行の途次、仙台の富山圓先生を訪ね、稽古をお願いしたことがある。当時は下駄履きであったので、長い旅の為めに、その歯はひどく斜めに減っていた。これを見た富山先生は、「このように下駄が外減りになっている。こんな減らし方をするようでは、大切な足の運びも充分ではあるまい。これではまだ私に稽古をつけてもらう資格がない。この下駄が平らに減るようになったならば、また来るように」 と言われてすげなく帰されてしまった。あの時の貴重な教訓を肝に銘じ、それ以来は専ら足の修錬を続けたものだ。」また先生は次のようにも言われた。
「30才の時上京して最初に中山博道先生の居合道の足・腰と掌中の作用とを学び、これを剣道に活用し、特に中段からの面技に主力を注いだ。中段からの面技の場合最も大切なことは、機会に当って打ち間から左足を踏み切り、右足を踏みつけると同時に左足の踵をやや下げながら、足と腰を残さぬようにするどくすりこむ。そして技のきまる瞬間両手を前方に伸しつつ、掌中の作用を以て、額からすり込むようにして強く打つのである。剣道は前から見ると何人も立派に見えるものであるが、後ろ姿の立派な人は極めて少ない。それは左足と腰の安定を疎かにしている為である。剣道を学ぶものにとっては、足・腰の修錬が最も重要のことである。」
齋村先生が道場に於ける姿勢態度の立派なことはつとに有名であったが、日常の堂々とした態度歩行と、稀に見る素晴しい打突の妙諦は、富山先生と中山先生の足・腰の教訓を終始活用されていた故であることを強く感じたのである。私は先生の教訓により、横踏みの足に留意精進を続けたので、漸く前向きになり、足の運びが軽快に出来るようになった。喜寿も過ぎ、前途幾許もない人生ではあるが、多年居合道で鍛えた足・腰で、本当の剣道を楽しみたいと心掛けている。
ありし日の齋村先生を偲んで一詩を捧げる。
交鋒威武露堂堂 英俊豪毅絶器量
德覆神州伝国粋 恩師遺訓放清光
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。