図 書
現代剣道百家箴
懐古70年虚弱児から健康児へ
小沢 丘(剣道範士九段)
私は2才の時肺炎に罹った。祖母和嘉、母和佐も肺炎となり、私と3人枕を並べてうなっていた時、父愛次郎は代議士に当選して開院式に出席するや、即日河野広中議長の奉答文不敬事件(陸下の御言葉に答える文章の中に不敬の字句があったという理由)で、国会は解散になり寒い寒いと言いながら帰宅した。この時小沢家は浮沈の境にあった。然し幸に父は次の選挙で当選し、3人の病人も快癒したのでやっと愁眉を開いた(安心した)。斯様な訳で私は虚弱児であったが、明治40年父は政界を退き、身辺に余裕が出来たので、私に剣道の手ほどきをしてくれた。爾来私は今日まで一度も病気をせず、修行を続けることが出来た。健康は総てのものに優先すると言われている。私は剣道によって救われた。子供が出来たら必ず剣道をやらせて頂きたいと思っている。
よき師に恵まる。 学生時代には嘉納治五郎校長を頂き、剣道では高野佐三郎先生に就くことが出来た。高師入学の前後、父愛次郎が教頭をしていた、元警視庁主席師範柴田衛守範士、同柴田勸教士の習成館(四谷区左門町。現新宿区)で指導を受けた。昭和10年より講談社野間道場で持田盛二範士に、修道学院で斎村五郎範士に、建武館で大島治喜太範士に、修行に出ては京都小川金之助範士に、香川県植田平太郎範士に、佐賀大麻勇次範士、佐世保納富五雄範士、朝鮮中野宗助範士、満洲高野茂義範士、新京(現長春)古賀恒吉範士等当代一流の先生方に直接教えを受けることが出来た。日本大学で読書1万巻という碩学館森袖海先生、竹田復、山口察常の二博士に支那(中国)哲学の指導を受けることも出来た。上田蚕糸専門学校(信州大学繊維学部の前身)時代剣道部長和田仙太郎先生からも篤い薫陶を受けた。先生は会津藩家老の家に生まれ、一高、東大仏文科出身である。(親友和田晋範士の実兄)古武士の風があり、和服で英仏語の教壇に立ち、武士道精神を説いてやまなかった。剣道家は足を鍛えよとて日曜毎に登山を半ば強要された。お陰で日本アルプスは40年前に踏破している。今もって膝が少しも痛まぬのは山登りの賜と信じている。私は心身両面でよい先生に恵まれた幸福な者と言える。足を鍛える山登りを勤めたい。
練習(稽古)は不可能を可能にする。 私は兵隊検査の時5尺3寸3分(約162cm)、14貫8百匁(約56kg)であった。(今は14貫3百匁)高師在学中 「そこ(底)豆」になり跟骨を患い、今だに治らない。従って飛込んだ時、右足がきまらない。無器用で、頭も弱く、技も下手である私は身体の立派な先生の御相手を願うことは元来出来ない即ち不可能な訳である。それにも拘らず先生方がお相手をして下さる即ち可能なことは実に練習(稽古)の賜だと思っている。孟子に「人一度すれば吾十度す」とある。私は人一度すれば吾三度すを念願として来た。現在でも講談社日本体育大学自家道場と、1日に2回の稽古を欠いたことはない。老齢だから1日1回にしたいと思っている。短身非力な人には稽古より外に救いはないと信じている。世の背の低い方よ、落胆することなく稽古に励めと言いたいのである。暴言多謝。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。