図 書
現代剣道百家箴
私の剣道修行
鹿島 清孝(剣道範士八段)
私が剣道を志したのは16才の春でした。私は至って体が小さいので、剣道家になろうなんて以ての外と、人々から嘲笑されましたが、私の祖先は神道無念流の剣術と長沼流兵学の師永井軍太郎先生の高弟であって、免許皆伝であります。
こうした事柄から私は剣道家になろうと発心した次第です。最初愛知県武徳会へ通っているうち、武徳会の師範田中厚先生の門下となりました。先生は大兵肥満力あくまで強く力のことでは幾多の逸話があります。
先生はある時、私に鷹の剥製を見せ「この鷹の眼を見よ、鷹はこんなに小さくても、あの大きな鶴を捕るぞ」鶴の嘴は鋭くて犬など近寄ると、羽撃一閃、犬の背中を一突きに突き通す程の威力を持っているが鷹はその鋭鋒を避けて、すばやく飛びかかって、鶴を捕るのだ。ここのところをよく考えて見よと諭されました。それから、私は体運動の敏捷と鋭気を養うに専念しました。
恩師田中先生は、私の19才の時惜しくも逝去されました。私が悲歎に暮れて居りました時、先生の実弟の内藤高治先生が、京都から来られて「俺が引受けてやる」と仰せられましたので、京都へ行き、武徳会本部の講習生となって、内藤先生の御指導にあずかることになりました。
その当時、武徳会本部の稽古は、はげしいというのが定評でありました。稽古は数をかけよとの教えの通り、命がけの稽古をし「まだ足らぬ、まだ足らぬ」と自分自身にいいきかせ、夜は小川金之助先生の弘道館へ、合間には北野の京都武徳会支部、又は京都大学へも時折り通いました。朝は早く起き知恩院の裏山華頂山に登り、普通より重い竹刀、木刀、これを辛棒と称して、日の出を拝し、五千回六千回と続けて振る(今でいう正面撃)ことが日課となりました。初のうちは腕の感覚を失い、終っても腕が自然に動いているような感じがすることが、しばしばでした。
或る日、いつものように行じていると心が空になり、夢に夢見る心地がして、広々とした平地を行くと山となり、谷となり、又広々とした野原を行く、行く内に、それはそれは奇麗な花園に出て、心地よく、真の快感を覚えるのでありました。私はこの時、これこそ嘗て浄土宗総本山知恩院の山下現有猊下から拝聴した、法然上人の楽往生と同様な境地であることを悟ったのであります。
私もいよいよ、齢を重ねた今日子弟に教えるには「この辛棒振り」を基本として邪念悪心を払い、そうして事に当る。これが私の生涯の教訓であります。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。