図 書
現代剣道百家箴
剣道と私
川上 徳蔵(剣道範士八段)
私が広島砲兵隊に入営したのは昭和5年の1月、幹部候補生はみな早朝から氷を割って水を汲み、馬の手入れをさせられたものだが剣道四段だった私は隊の剣術師範ということで、一目置かれ馬の手入れは免除された。
昭和6年大阪、豊中中学校に奉職した時は戦時中のことで剣道の位置は極めて高かった。同校では毎年2百名近い有段者を出し各大会に優勝したので、マスコミはこぞって報道、遠く海外にまでニュースは流れ、世界をにぎわした時のヒットラー・ユーゲントと親善交歓をしたのであった。
昭和19年、比島(フィリピン諸島)ルソン島作戦に小隊長として参戦したが、周知のようにこの戦いは飢餓との戦い。兵のほとんどは栄養失調に加えて風土病に犯され、高熱と飢えで死んでいった。わずかに元気な者だけが這いまわるようにしてへび、蛙、蝸牛、おたまじゃくし、雑草など、なんでも食べて命をつないだ。この生き地獄を乗り越え得たのは剣道によって培った精神力以外のなにものでもなかったと思う。
先般、グアム島から横井氏が奇跡の生還をされたにつけ当時を偲び、氏の生命に対する執着と執念に対し深く敬意を表したことである。
郷里島根に復員してみるとマッカーサーの指令で教育制度は一変、私は新制中学の校長に推された。校長としての急務は小学校校舎の一部を借りての仮住いから独立新校舎の建設であった。敗戦直後の混乱と物資不足の事情の中で新校舎を建てるのは至難なこと、各校長と頭を痛ためたものである。しかし、私は恵まれていた。町や村の有力者の多くが旧在郷軍人に所属していたことにもよるだろうが、今度の校長は剣道七段の猛者だそうだ。などという声が伝わったお陰げで、私の赴任したところは必ず校舎と体育館が建ち剣道部ができた。6学級職員13人の校長が、最後は25学級60人の職員を持つ大世帯の校長になれたのも剣道を修行したたまものだと思っている。昭和23年全国に先駆けて出雲大社で島根県剣道連盟を発足、初代会長に就任したので、県教育委員会から再三注意を受けたのも今にしては懐しい思い出である。
校長在職15年間、私の頭にはいつも剣道のことがあり、再び上阪し修養したい念願を持っていたが、達成され現在に至っている。学校長の停年(定年)より3年早く退職したとき、親族、校長会、教職員組合は挙って反対し頭が狂ったのではと噂されたのも無理はなかったと思う。あれ以来12年たちPL学園剣道部はすくすくとのび一方個人的には範士八段となることができた。
剣道と共に歩んで来た人生をふり返って思いだすままに書いてみたが、私は剣道とは誠の道であり、人類の福祉と世界平和につながるものと信じている。残された幾ばくかの余生を剣道界、ひいては世のため人のために捧げたい念願でいるが、そのためにも健康に留意し長生きしたいと思っている。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。