図 書
現代剣道百家箴
理想とする剣道
岸川 辰次(剣道範士九段)
私が剣道を始めたのは、明治39年のころであった。
佐賀警察署の道場に民間の有志が集まり、振武会という会をつくって稽古していた。当時剣道のことを撃剣とか剣術とか云っていた。私は何気なくその会に入会して稽古するようになった。
警察署の師範は後に武徳会範士となられた納富教雄先生であった。その振武会で8年ほど稽古をさせていただいたが、ある時どなたかに、山に登って谷を見下すような気位で修行せよと云われた。その言葉がいつまでも心に残った。その時はなんのことか理解しかねたが、稽古を積むにつれ、その教えが自分なりにわかるようになった。
山の頂に立って自分を雄大にして、眼下に谷を見下すような気位をもち、恐れたり驚いたり、迷ったりすることのない、毅然とした心構えをもつことだと気付いた。そこに風格が出来る。この風格は打突あるいは防禦の動作中といえども、乱れない心、崩れない姿勢をとものう。即ち気剣体一致の堂々たる態度である。
このように解釈して技と心を練ることを心がけ、67年間剣道の修行を続けてきた。
80歳の今日も、心の乱れをすこしでもすくなくするため、週5、6回の稽古を怠らない。
しかし、心の迷いを去るという理想にはなかなか到達しない。
今の世の中は、科学の進歩によって人間が月まで到達することの出来る世界である。それでも、これでよいと云ふことはない。科学者もそれで満足はしていないだろう。剣道の技術も心の修養も理想に達することは至難である。理想に近付くよう精進することが大切だと思う。
最後に、私の信条として修行しておることを申上げたい。
- 打突にあたり、相手の心を打つことを心がけて修行すること。
- 防禦の時、間合をよく見て、恐れたり驚いたり迷ったり疑ったりしないよう心がけ、相手の太刀の刃が自分の身体にさわらないよう修行すること。
- 利己的な心を捨て、剣の道を通じて社会のためになることに奉仕することを心がけること。
*現代剣道百家箴は、1972(昭和47)年、全剣連20周年記念事業の一つとして企画された刊行物です。詳しくは「現代剣道百家箴の再掲載にあたり」をご覧ください。